2015年8月25日火曜日

随時更新されるべき大学卒業までにやりたいこと

大学生活も気づけば残り1年半になった。
就職すること、つまり生産者側に周るということを考えると、学生にしかできないことが多々あることに気づく。

その上で大学卒業までにやっておきたいことを考えたい。
考え方としては、やりたいことを列挙し、合体できるものについては合体し、
優先順位が低いものを排除して考えていく。

では、以下ただ列挙する。

・留学
・発展途上国への長期滞在
・デザイン系の思考の習得
・ITリテラシー
・経済学を深める
・統計学を深める
・政治学を深める
・金融リテラシー
・出版業界でのインターン
・本を大量に読む
・世界各国を旅する
・今後5年、10年やっていきたいことを見つける(?)
・哲学系の思索を深める。
・英語習得
・スペイン語習得
・有名海外大学への短期プログラム参加
・非有名系大学への短期プログラム参加

これを整理すると、こうなる
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留学(9−6月)
・経済学、統計学、政治学を深める
・英語習得

就活(6月ー8月)

帰国後インターン(9−12月)
・IT、デザイン系?
・出版系?

発展途上国インターン?(12月−3月)
・スペイン語圏
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こうして考えると、
・本を大量に読む
・有名海外大学への短期プログラム参加
・非有名系大学への短期プログラム参加
・哲学系の思索を深める
・世界各国を旅する

はできそうにないな。

しかし、本はいつでも読める訳だし(自分は集中して24時間本を読めるわけではない)
哲学系思索も同様。
世界各国の旅行については就職してからも確実に趣味として行うだろうから、
無理にこのタイミングでしなくてもと思う。
(一方で帰国後インターンもなにも週5でやる必要はないわけで、
勉強できる部分もあると思う。

有名海外・非有名大学への短期プログラムはできれば参加したかったな。
これができうるのって、もはや帰国後しかないんじゃないかなー。
うーん、難しい。大概「サマーセッション」しかないからな。


オータムプログラムとかないんかな?

2015年8月18日火曜日

一年時に所属していた団体の事件に関して、今思うこと。

一年時に所属していた団体の事件に関して、今思うこと。

一年時に所属していた団体で事件があった。それからすでに3年がたった。当時、真剣に団体活動をやっていた訳ではなかったが、その事件は自分にとっても衝撃的であった。しかし3年も経ると、必然的に記憶は薄れる。そして今後もどんどん薄れていくであろう。真に忘却してしまう日もくるかもしれない。であるから、今当時思っていたこと、そして今思うことを記す。

私自身がそのことを知ったのは高校の夏合宿に同伴していった帰りのバスであったと思う。携帯に飛び込んできた文字に、鼓動が高鳴ったのを覚えている。
そして、その後団体の集まりがあったものの、海外旅行がすぐに控えいたこともあって、参加できなかった。そして、帰国したら人が大幅に減っていた。そして、色々な話を聞いた。まず本件に関して話をするのは禁じられた。友達もメディアもSNSも含めて全てである。そうして団体としては沈黙を貫き、セキュリティを強化し、存続するということであった。

現段階で考えても、彼ら上層部の意思決定は間違ってはいないと思う。(例えば、大事にしたくないといったような)ご遺族の意見が最も尊重されるべきであろうし、OBの様々な助言を経てのことだろう。しかし、私は当時、このような組織は存在すべきではないと確かに思った。少なくとも、社会的責任を負わないことを選択するのであれば、社会に組織として存在するべきではないと思った。この気持ちはひどく純粋なものであると分かっている。理想的であると、今では深く理解している。しかし当時、このように思ったこと、そして、こう思う人間が存在しうることを大人になり、「健全な」判断を下せるようになっても忘れるべきではないと思う。

それはそうとして、私はその組織にもう一年残った。存在すべきでない組織に残った。それはおそらく、この組織が嘘をついてでも入れるであろう(実際、新歓において、私が所属する支部が事件を起こしたことは語られなかったし、話すのを禁じられていた)新一年生をできるだけ別の方向に向けたいと思ったからである。他にもやりたいことはあった。しかし、それだけは自分が負う使命であると思った。

今ではその組織は平常運転しているだろう。人が変われば、その罪や意識は薄れる。
第二次世界大戦を経た国家の罪と同じである。

人は容易くものを忘れる。たとえ、それが自分にとって重要な一ページであったとしても。だから私は気持ちをここに記す。

『日本のいちばん長い日』(半藤一利)

『日本のいちばん長い日』(半藤一利)

【大日本帝国はその最後の一日をいかに過ごしたか】
戦争期における様々な失敗、狂信は多様なメディアを通して、伝わってくる。
そして、異様な天皇礼賛、軍の暴走がフィーチャーされることが多い。
それらのメディアを通した情報の基本構図は軍上層部の暴走、それに従わざるをえない被害者としての民衆・下級兵というものが多い。また天皇礼賛の強要に染まっていく市民という構図もまたあるだろう。
しかし、(少なくとも今までの私の知識の中では)①侵略者としての日本人②軍上層部・天皇の想いが語られることは少ないように思う。それは今テレビや雑誌を見ている我々の多くが民衆であったのであり、その責任を上層部に認めておけば、自分は何も罪を負わずにすむという側面があるのかもしれない。

本書はポツダム宣言を受諾するにあたっての政治上層部の言動、反対する一部の軍関係者、そして天皇の御心など意志決定者の話が語られる。

その中で国体維持に全身を捧げる軍、そしてその論理、美学は(一部)理解可能なものであった。単に精神主義といって批判するにはあまりに深い美学、信念である。それは軍人特有であるにしろ、その同胞を思いやる気持ちや滅私奉公の思想などは(軍において、最も精鋭化していたであろうことは別にして、)今日の日本にも残る精神であると思う。



【フィクションとノンフィクションの相違点】

本書は1945年8月14-15日、つまり終戦を告げるラジオ放送の一日前にあって、政府・軍の人間がどのように考え、行動したかを克明に記したノンフィクション作品である。
昨日、テレビ番組「カズオ・イシグロの白熱文学教室」を見て、フィクションとしての小説論を学ぶ中で、フィクションとノンフィクションの違いをまとめたい。

まずノンフィクションにあたっては、その目的は事実をなるべく適確に描くことである。あらゆる資料・調査を経て、真実の史実にいたろうとすること、それが最も重要である。そして、その史実は自分の手から離れている。言い換えれば、自分が手を加えた場所をできるだけ少なくすることこそノンフィクションを記述する作業の本質である。こう記述すると、それがあくまで学問チックで凝り固まり、つまらないものに思えるやもしれない。しかし、ノンフィクション”作家”はノンフィクションで描く”テーマ”・”時代”・”主人公”などの関して、一切の自由を持っている。であるから、一般に学問の中で扱われないテーマや、脚光を浴びない人物を中心とした作品など一定以上の自由度を持っているのである。またことわざにあるように往々にして「現実は小説よりも奇なり」であるのだ。

一方のフィクションに関してであるが、これは「事実ではない」という一点以外において、一切の自由の中にあると考えてよい。また小説はその存在のほとんど全てを「作者」に委ねている。作者が一切合切を決定している。もちろんノンフィクションにおいても、作者の視点が肝要であることは違いないのだが、フィクションはその比ではないだろう。フィクションはその存在理由も多様であり、作者によって大きく異なるであろう。カズオ・イシグロの場合、当初の彼の理由は「自分の心の中に残る日本」を記し、補完することにあった。しかし、後年の彼は記したいテーマを伝えること、あるいは自分が感じる、その「感覚を共有すること」に移行していったという。ノンフィクションでは基本的にのせたいメッセージが自身が選択した時代・人物に不可分に連なり合うのに対して、フィクションは自由に設定できる。そこが大きく異なるのであろう。

最後に記すべきことは、大半の作品がこれらの間にあるということである。

2015年8月14日金曜日

SNU-Utokyo Joint Summer Program 8/11、8/12まとめ

【自民党&国会】
平沢議員
・過去は重要であるが、未来志向で歩まねばならない。(→加害者側の論理ではないか)

・現在の安保法制に対して、
究極的な憲法の万人は最高裁である。
また憲法学者はいかなる法案に対しても常に”違憲”を唱えてきた。
例えばPKO法案がそれである。今ではPKO法案を違憲とする人は極めて少ない。
法学者は神学論争を起こすが、政治家は現実に向き合うものなのである。

・政治的無関心
最大の要因は政治家
一強多弱の中で選挙に行っても結果が変わらないことに対する虚無感があるのではないか。
ぜひ野党に頑張ってもらいたい。

・集団的自衛権
要件がある以上、一般的な集団的自衛権とは異なる。むしろ個別的自衛権の延長である。
(しかし国際法上は”集団的自衛権”故にその名称を使う”

・世襲議員に関して
選挙で勝たなければいけない以上、後援会は必要であり、受け継ぐ面で世襲が強いのは確か。
しかし、有能であれば問題ないし、なによりも民主的なプロセスの中で選ばれたという事実を忘れてはならない。

・女性
各省庁女性を3割以上採らねばならない。しかし合格者は2割。
逆差別的状況にある。

【最終発表】
・日韓の留学生上昇はいかにしてできるか。
とにかく時間がなく、質問設定が難しかった。
そしてなにより、英語力の問題で言いたいことが伝わらず、
リーダーシップを発揮できなかった点で反省すべきである。

オモシロい研究はいかにして生まれるか。
まず我々の研究には新規性がなかったように思う。
例えば他の班で日韓野球のスタジアムの設備・応援にテーマを絞った班があったが、
切り口からしてオモシロかった。


あえて範囲を絞ることで聴衆にとっての新規性を提供した好例であった。

SNU-Utokyo Joint Summer Program 8/7、8/10まとめ

【東京観光】

新大久保、靖国神社、秋葉原を訪れた。
最も印象的だったのは靖国神社である。
靖国神社には既に足を運んだことはあるものの、
遊就館も含めて、しっかりと向き合うのは初めてであった。
さらには靖国神社を有名足らしめている韓国の学生と訪れたという意味で新鮮であったと思う。

彼らの感想は「意外に小さい」というものであった。
つまり普段メディアを通して観察する靖国神社は首相と共に多くの人間がおり、
(特に彼らにとっての)問題の大きさも相まって、
印象の中で大きくなったのだろう。
これは我々にとってもあることかもしれない。
尖閣諸島の研究者には尖閣諸島は皆の想像、あるいは実際より遥かに大きなものに思えるであろうし、
パールハーバーは我々の想像よりも遥かに小さいのかもしれない。

各人が心に描く世界地図は現実と遥かに異なるのである。
メディアやITの発達によって、人々の認識範囲は確実に広まった。
しかし、それは誰かが彼の、彼女の観点でモノを見て、まとめたものに過ぎない。

また遊就館に関しては、どうしても日本よりな史実の書き方に違和感を覚えてしまった。
我々はあまりにも、戦争の”被害者”になりすぎているように思う。
我々は被害者であると同時に、やはり加害者である。
そして、それは現代に連なる問題を抱える韓国、中国だけに対するものではない。
一般に認識が低いが、東南アジア各国に対しても我々は侵略活動を行ってきた訳である。

そして、同様アメリカは被害者であるとともに、日本の原爆の加害者としての側面を忘れるべきではない。
もしかすると、広島と長崎への原爆投下は避けられないものであったのかもしれない。
しかし、避けられないものであったからと言って、その行為が正当化される訳ではない。
罰は受けないかもしれないが、その心に罪を背負うべきではないだろうか。

戦勝国があるが故に罪も罰もないのは正義とは言えない。

しかし最近、国レベルのやり取りのほとんどは「子供の喧嘩」のレベルにあるのではないかと思わされる。
今、何かしらの団体に対して、何らかの基準・規律をもうけたとする。
さすれば、その基準をもうけた主体は何らの基準に乗っ取ることがない。
そのため、その基準をもうけた主体を客体に別の主体がそこに基準を設ける。
そうして、「国」が存在している。
しかし国の上には、国の連合が作った客体と主体が一体化した「国際法」の縛りしかない。
よって、現在の世界制度は常にその頂上部が開かれたものであり、
開かれた状態においては、各主体は秩序を失い、まるで「子供の喧嘩」の要素を呈するのである。


【毎日新聞フィールドワーク】

・テレビと新聞について
テレビには放映権・放送法があるが、新聞にはない。
よってテレビの方がより(放映権の剥奪という弱みを握られているため)、政府に従属する誘因を持つ。

・安倍政権に対する批判
NHKの理事会の委員が安倍政権後、彼の友人で固められた影響で自主規制を行っており、
国営放送としての活動を怠っている。
従来は記者クラブの合意なしでは首相会見ができない慣習であった。
ただし、安倍政権後、この制度を無視し、好きなタイミングで好きなメディアに出演するようになった。

・メディアの意義
①権力のチェックと、②アジェンダ・セッティングの二つの主要素。
また一面として、新聞記者は現代史のデッサンを行い、なるべくその骨格を描く努力をするという
役割を持つ。(しかししばしばデッサンは間違える)
夜回り・朝駆けは権力者を会見に引きずり出すために重要な機能であるが、問題はそのグループが権力化していること。
また書く側の責任というものも意識しなければならない。

・日本の新聞市場
非常に膨大で、読売新聞は年間の発行部数でギネス記録を持っている。
そして新聞の95%は宅配という特殊市場である。

また新聞配布の事業所は新聞会社と提携する以外に、現地の企業と広告契約を結ぶことで
利益を増している。



・イエロージャーナリズム

影響力が大きい仕事をするとはどういうことか

影響力が大きい仕事をするとはどういうことか。

いわゆる日本の有名大学の就活生を見ていると、銀行や商社、コンサルなどの業界を目指す学生が非常に多い。そして(自分も違わず)彼らの主要な志望理由の一つに(本音はどうあれ)「影響力が大きい」「自分の価値を提供できる」といったものがある。

しかし、少し考えれば分かることであるが、「影響力が大きい」ということの反面として、失敗したときの影響も大きいということを意識しなければならない。

そして大きな失敗には確実に大きな「責任」が伴うはずである。しかし、一般に「株式会社」という制度は、「責任」の究極系を「辞職」ということに求めざるを得ない。そこに非対称的な報酬体系が見て取れる。しかも失敗者が失敗したいう情報が正常に伝わらなければ、大きな仕事で失敗した人間は、その「失敗」したという烙印を悟らせないまま、他社に柔軟に転職できるようになっている。

そのように考えると、「影響力が大きい」仕事は報酬の非対称な「やったもん勝ち」な状況にあり、「会社」にいる限り、「リスク」は極めて少ないことが分かる。

しかし、もし自分が影響力が大きい仕事につくならば、その「責任」の重さを持って尚、自分の仕事に自信を感じれるだけの努力と献身をしなければならないと思う。

2015年8月7日金曜日

『不平等国家 中国-自己否定した社会主義のゆくえ-』(園田 茂人著)

『不平等国家 中国-自己否定した社会主義のゆくえ-』(園田 茂人著)

ブリーフィング

サマープログラム参加予定の園田教授の中公新書。タイトルにあるように社会主義を掲げている中国、その中に潜む様々な不平等を捉え、今の中国の実情に迫っている。特徴としては、ほぼ全てのデータが園田先生を中心としたプロジェクトの元、観測されたものであるということであろう。
本書の内容を詳しく見ていくと、中国の不平等を様々な視点・観点、具体的には「学歴」「都市と農村」「ジェンダー」を通して、観測し、その後経済成長を伴って顕れた「中間層」がもたらす影響を議論し、今後の中国の姿を展望している。



興味深い点・議論点


・園田先生に直接伺った話であるが、先生が(様々な批判に晒されそうな)現地人への直接の質問調査にこだわるのは、一般にマクロで語られがちな国際関係学・社会学をミクロの視点より観察し、マクロ的に語られている物事が本当に起こりうるのかを観察する、従来の学問への挑戦であるとおっしゃっていた。在る国家の人々の意識こそが最終的な国家のあり方を定めるのであり、それは金融政策などによって、エリート的に導かれるものではないといった思想が背景にあるように思われる。

・多くのデータにおいて、自分の今の立場を肯定的に捉える傾向がある。(例えば、農村からの流入移民としての外来人口は自分が都市に貢献しており、自分たちは都市に害は及ぼしていない。そして適切に保護されるべき存在であると語っているが、多くの都市民はそう思っていない。)これはある意味人間として当たり前のことである。データを採る際にはやはり誰に対して、どのような調査を行うべきか明確に考える必要があるだろう。最近、特に思うのだが、どうも「文系人間」は理系的な出来事に対して、無思考になりすぎると思う。例えば、統計や(数学が多用されるという意味で)金融、科学技術においては、専門家の知恵に頼りすぎるが故に、彼らが前提としている多くの事柄が分からなく、リスクの把握が難しくなっているように思う。俗にいう理系「リテラシー」を高める必要がある。(ただし、多くの人間がリテラシーを高められない理由には理系の多くの学問が積み重ね型であり、コストが高すぎることがあるだろう)

・「諸機関への不信感」を尋ねた調査における政府への不信感が(私の感覚と比して)低すぎるように思う。中国においては、政府の監視が非常に厳しいので、素直な解答が難しいのだろう。もう少し、マイルドな表現での質問をすれば、正確な値に近づくかもしれない。

【論文】The Development and Problems of Soft Power between South Korea and Japan in the Study of International Relations


The Development and Problems of Soft Power between South Korea and Japan in the Study of International Relations まとめ

権力=(一般に)思い通りに相手を動かす影響力のこと
--ムチを持って脅す(恐怖)
--人参によって、誘導する(インセンティブ)
-- 相手を魅了する

国際関係論における権力=ある国家が他の国家に及ぼす影響力

Hard Power=Economical & Military
Soft  Power=Culture&Values&Foreign Policy

→Soft Powerは
文化的融和と文化的対立両方を起こしうる

現在、日本と韓国双方において、互いに密接なSoft Powerを所持している。



【元論文】
http://www.media.saigaku.ac.jp/bulletin/pdf/vol8/human/17_yoon.pdf

2015年8月6日木曜日

SNU-Utokyo Joint Program 8/3~8/6 まとめ

現在、ソウル大学との合同プログラムに参加している。
その中で学んだことを随時、備忘録として記載していく。

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・会社を選択するにあたっても、5W1Hは非常に重要なフレームワークと言える。
「誰と、何を、どのように、なぜ、いつ、どこで」やるか。その重み付けを意識すれば、自ずと選択できるに違いない。
ここで思い出すのはGolden Circleの議論、つまりHow→What→Whyの議論である。

・日本企業に入って難しそうなのは、尊敬に値する上司を発見することである。

・いかなるプログラムにおいても、訪問先企業名は関係ない。要はそこで何を学ぶことが予期されているかである。

・ミクロがマクロを作り上げるが、しばしばミクロは忘れがちになってしまう。

・仮説ありきの分析⇔仮説なしの分析

・日本人の英語レベルの低さ
→東芝の工場のように未だ技術力により、英語レベル・交渉レベルの低さをごまかしている企業は多いのではないか。

・受験は反射神経にすぎない。大学生に求められるのは「問題設定能力・思考力・持続力」である。

・韓国大使館でのヘイトスピーチ
→ヘイトスピーチはなぜ生まれるのか。—ナショナリズム・愛国心の起源はどこにあるのか。

・英語で授業を受けるのは予想以上に難しい。テープなどを持ってった方が良いかも。
また確かに一つ言葉が分からないと、調べざるを得ず、それを調べている間に次に進んでしまう。単語を覚えるという作業は出発前にやっておくべきかもしれない。



2015年8月3日月曜日

リスクと不確実性のキャリア論

内容としてはタイトルにある通り、「リスク」と「不確実性」を取り違えてキャリアを考えるべきではないということである。

ここで一般的な定義に乗っ取り、両者を説明すると「リスク」とは「目に見える」あるいは「確率計算が可能」な事象のばらつきであり、対照的に「不確実性」とは「目に見えない」そして「確率計算が不可能」な事象である。

私はキャリアを考える際、「リスク」をヘッジし、「不確実性」を許容するキャリア選択をすべきだと考える。ヘッジすべき「リスク」とは例えば、今、経済学部に所属する自分が「なるべく影響の大きい仕事をする」といった選択に晒された際に、芸術関連の仕事に転向するようなことが挙げられる。つまり、今の自分がこれから絵画を勉強し、実際に絵描きになったところで「なるべく影響が大きい仕事ができる」確率は圧倒的に低いと思われる。こういった選択は(キャリアのプライオリティが圧倒的に自分のしたいことをするというものに比重が置かれていない限り)、多大な「リスク」を孕んでおり、ヘッジすべきだろう。
しかし、不確実性はどうだろうか。それは例えば、また「影響力が大きい仕事をする」という目標に直面した際に、「商社」に行くのか「銀行」に行くのか、「ベンチャー企業」に行くのかで、いかに、それぞれどの程度のレベルで達成されるかどうかは不可視である。また、いずれにせよ、自分が認識した変数以外にも自分が意外と重視していた変数は生まれうるものではないか。
よって、私達は「リスク」は確実にヘッジするけれど、「不確実性」を過剰に評価する必要はない。未来はだれにもわからないのだ。

またマキャベリの言うように人生におけるキャリアは半分が「運命」、もう半分は「力量」で構成されている。(マキャベリは国家の文脈で使用したが、それは人生にも援用可能であると考える。)ここで我々は「運命」をのろうべきではない。むしろ、マキャベリが述べたように「力量」を持って、「運命」を制することを目指すべきなのだ。
つまり未来は自分でたぐりよせられるということである。

まとめをするのであれば、将来の「リスク」を見据え、ヘッジし、「不確実性」を恐れずに自分が本当に正しいという直感に従い、選択を行う。その上で迫り来る「運命」に対し、自分の「力量」でもって立ち向かい、それを我が者にする。そのようなキャリア観が必要に思う。
(飲み会の後に書いているため、文章が多少支離滅裂。後で直そう。)