【東京観光】
新大久保、靖国神社、秋葉原を訪れた。
最も印象的だったのは靖国神社である。
靖国神社には既に足を運んだことはあるものの、
遊就館も含めて、しっかりと向き合うのは初めてであった。
さらには靖国神社を有名足らしめている韓国の学生と訪れたという意味で新鮮であったと思う。
彼らの感想は「意外に小さい」というものであった。
つまり普段メディアを通して観察する靖国神社は首相と共に多くの人間がおり、
(特に彼らにとっての)問題の大きさも相まって、
印象の中で大きくなったのだろう。
これは我々にとってもあることかもしれない。
尖閣諸島の研究者には尖閣諸島は皆の想像、あるいは実際より遥かに大きなものに思えるであろうし、
パールハーバーは我々の想像よりも遥かに小さいのかもしれない。
各人が心に描く世界地図は現実と遥かに異なるのである。
メディアやITの発達によって、人々の認識範囲は確実に広まった。
しかし、それは誰かが彼の、彼女の観点でモノを見て、まとめたものに過ぎない。
また遊就館に関しては、どうしても日本よりな史実の書き方に違和感を覚えてしまった。
我々はあまりにも、戦争の”被害者”になりすぎているように思う。
我々は被害者であると同時に、やはり加害者である。
そして、それは現代に連なる問題を抱える韓国、中国だけに対するものではない。
一般に認識が低いが、東南アジア各国に対しても我々は侵略活動を行ってきた訳である。
そして、同様アメリカは被害者であるとともに、日本の原爆の加害者としての側面を忘れるべきではない。
もしかすると、広島と長崎への原爆投下は避けられないものであったのかもしれない。
しかし、避けられないものであったからと言って、その行為が正当化される訳ではない。
罰は受けないかもしれないが、その心に罪を背負うべきではないだろうか。
戦勝国があるが故に罪も罰もないのは正義とは言えない。
しかし最近、国レベルのやり取りのほとんどは「子供の喧嘩」のレベルにあるのではないかと思わされる。
今、何かしらの団体に対して、何らかの基準・規律をもうけたとする。
さすれば、その基準をもうけた主体は何らの基準に乗っ取ることがない。
そのため、その基準をもうけた主体を客体に別の主体がそこに基準を設ける。
そうして、「国」が存在している。
しかし国の上には、国の連合が作った客体と主体が一体化した「国際法」の縛りしかない。
よって、現在の世界制度は常にその頂上部が開かれたものであり、
開かれた状態においては、各主体は秩序を失い、まるで「子供の喧嘩」の要素を呈するのである。
【毎日新聞フィールドワーク】
・テレビと新聞について
テレビには放映権・放送法があるが、新聞にはない。
よってテレビの方がより(放映権の剥奪という弱みを握られているため)、政府に従属する誘因を持つ。
・安倍政権に対する批判
NHKの理事会の委員が安倍政権後、彼の友人で固められた影響で自主規制を行っており、
国営放送としての活動を怠っている。
従来は記者クラブの合意なしでは首相会見ができない慣習であった。
ただし、安倍政権後、この制度を無視し、好きなタイミングで好きなメディアに出演するようになった。
・メディアの意義
①権力のチェックと、②アジェンダ・セッティングの二つの主要素。
また一面として、新聞記者は現代史のデッサンを行い、なるべくその骨格を描く努力をするという
役割を持つ。(しかししばしばデッサンは間違える)
夜回り・朝駆けは権力者を会見に引きずり出すために重要な機能であるが、問題はそのグループが権力化していること。
また書く側の責任というものも意識しなければならない。
・日本の新聞市場
非常に膨大で、読売新聞は年間の発行部数でギネス記録を持っている。
そして新聞の95%は宅配という特殊市場である。
また新聞配布の事業所は新聞会社と提携する以外に、現地の企業と広告契約を結ぶことで
利益を増している。
・イエロージャーナリズム
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