2015年6月17日水曜日

『若きウェルテルの悩み』(ゲーテ)

『若きウェルテルの悩み』(ゲーテ)

小説であるが故に、ブリーフィング・感想といういつもの形式は採らない。

この話はやや厭世のきらいがあるウェルテルがロッテという人妻に恋をし、思い悩んだ末に自殺するまでの心の葛藤を日記形式で記している。

本作品の中で驚嘆すべきはその心情の仔細な描写である。ゲーテが評価される理由も納得である。

さらに興味深いのは本作中、いわゆる”悪者”は一人も出てこないことである。悪者は出てこないのに、愛や慣習が交錯し、最終的に一人の青年の死がもたらされる。そこに人間関係に関する諸問題の本質の一部が垣間見える。つまり、世の中全ての人間が正であり、善であったとしても、交流の齟齬によって、人と人との間に想像に固くない”悪”が生まれる。誰が誰を恨んだわけでもない。嫉妬した訳でもない。ただ、それはそこに生じてしまうのである。

【その他】

理不尽な生に意味はあるのか。
理不尽な生からの逃避としての自殺は本当に糾弾されるべきなのか。

およそ理性と呼べるものが生じて以来、「生きる意味」は僕の中で常にテーマとなってきた。「正義」か「善」か「金」か「愛」か。

今のところの「正解」は『夜と霧』の中の記述、つまり生とは常に具体的状況の中でこそ、あり得るというものがしっくり来る。
生の意味は果たして抽象的なものであり得るか。
おそらく、そうではない。
各人の具体的状況において、生が私に問いかける、「今、私がいる意味」、一つ一つ下した決断や積み上げられる精神、それこそが生の意味である。

2015年6月15日月曜日

『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の招待』(森本あんり)


『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の招待』(森本あんり)

ブリーフィング

昨今、書店において「反知性主義」に関する本が跋扈しているが、
本書は現代の反知性主義を育てたアメリカの歴史を観察し、論述している。

アメリカは入植当初から、非常に高学歴な社会を構築していた。
それはアメリカへの移住がイギリスのインテリ層における協会の純粋化運動の延長であったことが原因である。
実際、アメリカでは小学校などに先だって、最初に大学が構築されたことに(牧師の養成を目的にした)高学歴社会の例を
見ることができるだろう。
当時のアメリカにおいて、ピューリタンの人々は日曜日に長々と礼拝をし、説教を聞くという生活を送っていた。

そのような高学歴社会、高度な礼拝に対して、「反知性主義」の萌芽としての18世紀に信仰復興運動(リバイバリズム)が巻き起こる。
リバイバリズムは教理についてではなく、心に、インテリだけにではなく、大衆に向けられた真理の教授に特徴づけられる。
そういった演説をするものは従来のようなインテリではなく、大学を卒業していないような人間が担った。

またこれらのリバイバリズムはアメリカの基礎である「平等主義」が背景にある。
正確に言えば、平等主義を掲げるにも関わらず、現実的な平等が達成されないことへの
不信感こそがリバイバリズムの一つの原動力であるのだ。
(ピューリタンも宗教的平等と現実的平等を別個のものと見なした。)

次に19世紀初旬領土の広がりと共に、第二次リバイバリズムが勃興する。
パブテストやメソジストのような”世俗”の牧師達が、いわゆる西部開拓地で苦労している「荒くれ者」達の
教化に励んだ。そこでも第一次と同様、聖書は面白く、分かりやすい物語として語られた。
また政治的にはジャクソンのような大衆的で権力に立ち向かっていく”勇敢”な人間がヒーローとなった。
時代の要請はあくまでも「下層階級の人々の好奇心を茂樹氏、享楽の欲望を満たし、支持をとりつけるために低俗で野卑なものを
提供すること」であり、権力に対する対抗であった。その観点から、反知性主義は反権力主義である。

そして、ムーディーにおける第三次リバイバリズムで、振興復興は巨大産業化、娯楽化を果たす。
まるで世俗の音楽を交えた賛美歌、そしてセールスマンのような巡回ビジネスによって、更なる広がりを見せるのである。

以上の歴史の上に、大衆伝導家ビリー・サンデーをもって、反知性主義は完成する。
サンデーはサーカスのようなショービジネスを展開することで、莫大な富みを得た。
またこの時期の完全な政教分離の成立は、自身で寄付金を集めなくてはならなくなった協会の
大衆への迎合を招いたのであった。

ここから、反知性主義とは「知性」への反抗ではなく、知性と権力の結びつきに対する反抗であると分かる。
そのような背景にはラディカルな平等主義や極端な楽観主義、即物的な宗教観(信じることによって、現世での幸せが得られる)
というアメリカの本質的な風土があったのである。


感想・考察

アメリカ社会の特性について読んだ初めての本という意味で非常に興味深い点が多かった。
本書においては平等主義や、”若さ”故の楽観主義、現世主義が特徴とされる。
現代日本において、反知性主義を考える際にすぐに出てくる疑問は
・日本にも反知性主義ははびこっているのか
・果たしてそれは「危険」なものであるのか
という二つの問いである。

まず一点目に関して、もしアメリカの風土と、それによって変質したキリスト教観
が反知性主義を生むのであれば、日本にもそれを生み出す素養はあると思う。
日本社会はアメリカ社会に比べて、より平等な国家である。アメリカ社会における識字率は
85%に過ぎないが、日本はほぼ100%である。また、いわゆるお賽銭を投じることで
願いがかなうという即物的な宗教観にも共通点が見られるからである。

また、それが「危険」なものであるかどうかに関しては「反知性主義」が現在どのようなものであり、
それがどのような方向に変化していくのかによるだろう。
もし、「反知性主義」が反権力主義に留まるのであれば、それは必ずしも危険とは言えない。
そういった反権力的な姿勢が今日の社会を作り上げてきたことからもそれは明らかだと思える。
一方で、もしそれが日本でいうところの「反・知性主義」に成り下がるのであれば、
それは多いに危険であろう。「原発は危ないから、やめよう」という世論、そしてそれに迎合するだけの政治家という体制が出来てしまえば、
それこそより大きな問題に目を背けることになる。

反知性主義は知性の本質を求めるが故の反抗である。それは知性を嫌うからではないのである。

2015年5月30日土曜日

文化と文明と東洋と西洋と日本絵画と西洋絵画

【文化と文明】

他の方も記載していたが、”人間に役立つものとしての文明”と
”人間の信用の中で生まれる文化”という観点は興味深かった。

“文化”と“文明”を上記の意味で捉える時、文明は成果が明白である。
新しい社会技術やシステム等、目に見える”進化”がそこにはある。

では”文化”とは結局どのようなもので、それが”進化”していくとはどういうことか。
絵画は文化である。音楽もそう。文学もまた。
そして地域ごとの人間関係のあり方も同様文化であろう。
そう考えると、余計に分からなくなる。

ふっとノートを開き、上村さんの言葉を思い出して見る。
「戦中、鎖国によって刺激を失った日本文化は疲弊した」
「争いの中に文化の進化はなく、謙虚さによってこそ生まれる」

この言葉から類推するに、文化とは結局”自己理解”ではないかという結論に達した。それはきっと身体的な、物理的自己ではなく、社会として、まとまりとしての自己理解。
その意味では絵画、音楽、文化は一種の自己”表現”である。
人はあらゆる方法、メディアを使って自分を表現する。
だから、おそらく文化は”進化”しない。”深化”するものだと私は思う。


【東洋と西洋】

西洋と東洋の対比は良く聞く。
しかし少し考えてみると、西洋とはなにで、東洋とはどこで、
それ以外の地域はどうなっているのか。
そもそもアフリカ人にとって、南米人にとって、
西洋と東洋という概念は頭にあるのか。
イスラーム圏は東洋か、西洋か。
それは宗教で分けられるのか。人種か。国か。地理か。

結局のところ、西洋と東洋の比較は
自国の属する中華圏文化と経済的・軍事的に優れていた西洋文化との比較でしかない。
東アジア圏が経済的・軍事的に発展した今だからこそ、
狭義での(自民族を必要以上に美化するという意味での)
エスノセントリズムに陥らぬよう気をつけるべきかもしれない。

以上を念頭においたとしても、西洋と東洋比較は面白い。
東洋の自然と”調和”する思想。
自然を愛し、自然に学び、自然に感謝する。
今まで人間は西洋の文化に習い、自然を抑圧してきた。
そのツケを将来払わされることになるかもしれない。
しかし、私達は責任を”西洋”に押し付けてはいけない。
結局のところ、文化とは国でも、人種でも、宗教でもなく、
1人1人の人間に宿るものではないだろうから。
だから、単なる西洋批判はなんの意味も持たない。

文明の進化をもたらし、これからも
もたらし続けるであろう西洋文化と、自分の根底にある
東洋文化の対話をどう行い、結論を導くのか。
対話は自分の中にも確かにある。


【日本絵画と西洋絵画】

特に詳しくはないのだが、西洋絵画は好きである。
今回ほぼ初めて日本絵画を真正面から見て、意外なほど感動した。
その色の細やかさ、鳥達の今にも動き出しそうな様子。
シンプルなその絵に込められた全てが語りかけてきた。

西洋絵画で好きなのは、印象派とシュルレアリスムである。
しかし上村さんは上記の二つの流派が持っていたある意味での”現実性”は
日本画では“当たり前”のものであるらしい。
(ちなみに勘違いされやすいのだが、シュルレアリスム=「超現実」は現実を超えた夢想の意ではなく、
”人の目に見えている現実よりもより現実”を描き出す流派)
確かに古来から日本絵画が持っていた
”再現性のなさ””イメージの重視”は印象派、シュルレアリスムが志向したものでもあるだろう。 

日本絵画が将来、より世界に知れ渡る時はくるだろうか。
おそらく来ないだろうと思う。
そこには”目に見える”普遍的な美はない。
再現性、イメージが私達に訴えるのは、
”日本”という文化に生き続けている我々の文脈においてのものだ。
だからこそ、私達はこの”日本”絵画をもっと理解し、
保存しなくてはならない気がした。

卒論に関して

卒論に関して


留学する可能性があるとはいえ、最近少し卒論について考えだしている。
(留学した場合、卒論が受理されないかもしれないのだけれど)

卒論は自身が4年間で勉強してきたことの最終的なアウトプットであるから、一定以上の質を追求していきたい。

そうした場合、何をテーマにどのような論文を書こうか。

まず思うのは、ミクロ計量を基本とした開発経済論文を書くということ、そして学際的なアプローチで書きたいということである。

学際的なアプローチとは必ずしも経済学に準拠した論文である必要はないということである。

政治学、社会学、法学、心理学等の知見を活かした論文を仕上げる。

そういった複数の視点からのアプローチという観点からは、「課題解決型」の卒論というものが自分には望ましいと思う。

ある問題を設定し、それがいかなる問題構造をしているか考え、フローチャートにまとめる。その後、各種因果関係を経済学的なアプローチで求める。

そして現実の解決策の有効性に関して、評価した上で、改善の方向性を示す。

このようなアプローチにすることで社会で実際に問題に取り組んでいる方々の「生の声」を聞く大義を得られる点でも良いと思う。

頭で考え、足を動かす、それを循環的に行っていく。そんな卒論が書ければ面白い。

2015年5月23日土曜日

『危機の二十年 理想と現実』(E・H・カー)

『危機の二十年 理想と現実』(E・H・カー)

ブリーフィング

国際政治学の起源とも言われる本書。第一次世界大戦前、中、後の20年(1919~1939年)において世界はどう対応したのか、そして当時の政治学者、政治家はどのように考えたのかを分析する。

目次
第一部 国際政治学

まず始めに政治学の基本的な枠組みとして、”目的が先行し、事実を跡づけするような”ユートピアニズム”と、”事実を重んじて厳密な批判的・分析的思考を導く”リアリズムの導入を行う。

ユートピア:「何が存在すべきかの考察に深入りして、何が存在したか何が存在するかを無視する傾向」「自由意志」「政治理論は、政治の現実が従うべき規範」「急進主義者」


リアリティ:「何が存在したか何が存在するかということから、何が存在すべきかを導きだす傾向」「決定論」「政治理論は政治的現実の一つの体系」「保守主義者」

第二部 国際的危機

全会一致を標榜した国際連盟を始めとして、当時のユートピアニストは「世界の純真な民衆」が適切な思考を働かせれば、おのずと正しい決定が下せると信じていた。その国際政治におけるユートピアニスト達の前提として常に存在していたのは「個別の利益が自ずと全体の利益となる」あるいは「他者を害して利益を得る人など誰もいない」ということである。しかし、危機の20年において、様々な利益衝突が表面化した。もはやユートピアニズムの全構造は崩壊を見たのである。
一方、リアリズムはマキャベリにその起源を持つ。その起源とは原因と結果の連鎖としての歴史に対する知的努力による分析、理論が現実を作るのではなく、現実が理論を作るということ、そして政治が倫理の機能ではなく、倫理が政治の機能であるということである。この観点から、国際主義や利益調和説は強く批判された。しかし、リアリズムが一定の限界を持っているのもまた事実である。(完全な)リアリズムは有限の目標、情緒的な訴え、道義的判断の権威、行動の根拠を無視することになってしまう。リアリズムから見れば、世界の流れは決定しており、そこに介入する人間の意思は排除されてしまうのである。

第三部 政治、権力、そして道義

以上の対比を踏まえた上で、政治の本質とは何であろうか。政治には道義と権力両方の妥協の上に成り立っており、どちらか一方のみが存在するわけではない。政治における権力は経済力、軍事力、意見を支配する力によって構成される。
国際的道義は存在するが、それは「イギリス」や「フランス」といった集団的人格によるものである。国際的道義の難しさは、国家の上には何ものも存在しないこと、つまり道義的義務の絶対性は担保されないことである。


第四部 法と変革

国際法は果たして何を基盤にし、それは機能しうるのか。国際法における常設国際司法裁判所は拘束性を持たないし、そもそも条約そのものも拘束性はない。そういった意味で法は本来持つべき定着性、規則性、継続性を必ずしも備えているようには思えない。
では平和的変革はどのようになされるのか。ユートピアニストはそれを世界立法府や世界法廷によって実現しようとする。またリアリストは平和的変革=変転する権力関係への適応と見るのである。


結論

「危機の二十年」を通して、純粋なユートピアニズムは崩壊した。新たな国際秩序は新たな権力構造によって構築されるだろう。しかし、道義の要素を軽視するのは偽りのリアリズムである。むき出しに権力に人々は反抗するという単純な理由より、国際秩序は少なからず道義が関与してくる。「結局のところ、国際融和へと前進する望みの最大のものは経済再建の道にあると思われる」。よって一種、ユートピアニズム的であるやもしれないが、道義に基づて(を回復して)、国際政治に経済的利益を犠牲に、、社会的目的を促進することを期待する。






感想・考察

国際的な権力はなにから生じるのか。本書ではそれを経済力・軍事力・意見を支配する力としている。確かに現在、世界で最も権力を持っているアメリカは3つ全てを持っている。また中国は経済的なプレゼンスの拡大と共に、国際的な発言力を増している。もし、これに+αするとするならば、俗にいう”インテリジェンス”を足したい。フーコーの監獄装置のように一方的に相手のことを知っていることは圧倒的な強みなのである。
 では、企業間の権力差、あるいは交渉力差はどのようなものから生まれてくるのか。例えば、大企業と中小企業では一般的に大企業の方が交渉力が強い。それはひとえに”オプションの広さ”に起因すると考えられる。つまり大企業側から見れば、ある一つの部品を作れる工場は無数にある。しかし中小企業にとって見れば、(ブランドの弱さ・情報収集にかかるコストの高さなどにより)交渉の機会は限られており、これがある程度妥協しなければならない理由となる。一方、中小企業が唯一無二の技術を持っていた場合、立場は容易に変わりうる。





2015年5月17日日曜日

『ヨーロッパ思想入門』(岩田靖夫)

『ヨーロッパ思想入門』(岩田靖夫)

ブリーフィング
岩波ジュニア文庫ではあるものの、ヨーロッパ思想の根源を知れる良書。
構成として、前半部においてヨーロッパ思想の根源をなすヘレニズムおよびヘブライズムに関する著述が続き、後半部では様々なテーマのもと、各思想家の思想をまとめている。

以下、前半部のヘレニズムとヘブライズムに関してまとめる。

ヘレニズム:
ヘレニズムはアテネを中心としたギリシア半島で栄えた思想である。
その中心概念は”本質へのまなざし”にあるのではないか、と考えられる。
物事の本質、我々人間の本質は果たして何であるか、それが彼らの根本的な問いであった。
これは西洋における数学や哲学の発達に寄与していると考えられる。
そして、その他現在の大きな影響を与えているのは法の下での自由と平等である。同時代のほとんど全ての共同体が国王を中心にした、圧政の下にあったことを考えれば、この国の異様さが際立つと言えるだろう。

そんな彼らにとって、最高の人生とは何か。それは自己の全能力を発揮することにある。

また彼らにとっての「神」は人間の延長、人間の理想=不死としての存在である。従って、神は不倫もするし、恋愛もある。そこには超越性がないのである。


ヘブライズム:
ヘブライズムとは旧約聖書、ユダヤに端を発する。
彼らの思想の根本にあるのは、神、超越的な神、無から有を作り出す神。愛の神である。
そして、その神の下、人間は完全に平等である。神の絶対性の下では、現世の地位による差異などないに等しい。これが世界宗教として、多くの者を惹き付けてやまない理由であろう。来世の仮場としての現世において、人は一人一人が比較を許さない絶対者であり、農民も商人も王も等しいのである。





2015年5月14日木曜日

『クリエイティブ・マインドセット』(デイヴィッド・ケリー) &『センスは知識から始まる』(水野学)

『クリエイティブ・マインドセット』(デイヴィッド・ケリー)

ブリーフィング

クリエイティビティはこの世に存在する人々全てが持っているもので、
「創造性に対する自信」欠けているだけなのだ。

この自信もIDEOの「デザイン思考」に乗っ取れば、誰もが自分のクリエイティビティを体感し、
獲得できるものであり、本書ではその方法が語られている。

まず「恐怖を克服する」こと、恐怖を克服して、自分が前に踏み出す勇気がついたなら次は、
創造性の火花を散らす。そして、思いついたアイデアをすぐに実行しよう。
しかし、自分だけのクリエイティビティは限界があるので、他の人の意見も積極的に活用しよう。

その上で実際に自分のクリエイティビティを上げるための具体的なツールを紹介している。


『センスは知識から始まる』(水野学)

ブリーフィング


「センスの良さ」とは数値かできない事象の善し悪しを判断し、最適化する能力

センスを良くするためには、まず「普通」を知ること。普通を知ることで、良いものと悪いものを判断する基準を得る。
普通を知るためには「知識」が必要である。その分野の常識を知らぬまま、「◯◯」はセンスの領域だから、、、というのは言い訳である。
しかし、この際の知識は常に客観的でなければならない。

知識を得るためには「王道から解いていき」「今流行しているものを知り」「その中に一定のルールや共通項がないかを探っていく」プロセスが必要。
「感受性」+「知識」=「知的好奇心」

非日常=「旅」を通して、他の人の考え方を学ぶということ


イノベーション=知識×知識であり、「え!」ではなく「へぇ〜」