2015年5月11日月曜日

『人間不平等起源論』(ルソー)


『人間不平等起源論』(ルソー)

授業で書いたレポートが読書感想文的なものだったので、転載。今から見るとクオリティが低いw


ブリーフィング

 まずルソーは本書『人間不平等起源論』をジュネーブへの献辞をもって始める。この献辞は一見、形式上ジュネーブ政府・国民を誉め称えているように見えるが、これは本書や『社会契約論』で展開されるルソーの理論上でなされた当時の両者が孕む問題の痛烈な批判であった。
 ルソーは本書の目的を人間が抱える2種類の不平等、すなわち自然的不平等(=自然が定めた健康状態や体力、精神の質などの差)と社会的不平等(=現状の貧富の格差など)が生じた理由、その起源を明らかにすることだと明示する。それは言葉を変えて「暴力の代わりに権利が登場し、自然が法に服するようになった瞬間」、あるいはなぜ「強者が弱者に奉仕することを決意できたのか」を解明するためであると述べられる。
 まずルソーの目的は自然が生み出す人間(=自然状態にある人間)と社会が生み出す人間の境界である故に、人間の起源から考察を始めなくてはならないとする。その考察にあたり、ルソーは解剖学的知識でも、超自然的(聖書上の)知識でもなく、現実の人間から「紙からうけとることができたすべての超自然的な賜物と、長い期間をかけて進歩することで獲得できたすべての人為的能力」を除くという想像的技法を用いたことがここで明示される。そこで原初の人間を固有の本能が欠け、欠けているが故に全ての動物の本能を自らのものとして獲得できる存在であると規定する。具体的に、自然人は「特に言葉を話さず、家を持たず、互いに闘うこともなく、他人と交際することもなく、同胞を必要としないし、同胞に危害を加えようと臨まない。おそらく同胞の誰一人として見分けることもできない。こうした野生人は情念の虜になることもほとんどなく、自分だけで満ち足りており、こうした状態にふさわしい感情と知識しかもっていない。」。以上のような自然人の性質の中で、重要な概念は二つある。それは「自己保存」と「憐れみの情(ピティエ)」(=「自己の同胞が苦しんでいるのを目にすることに、生まれつきの嫌悪を感じる」)である。ホップズは自然人が持っている「自己保存」の側面のみを捉えていたため、「万人の万人による闘争」を生むとしたが、ルソーは自然人の中において「自己保存」と同時に「憐れみの情」が「ぼんやりとであるが強く働く」ために、自然人は相手のものを奪うというよりも自分のものを守ることを主な行動とするのである。そして自然人は必要以上の理性を持たないため、誰一人としてこの感情の優しい声に逆らおうとする人がいないということである。故に自然人はあくまで孤独なのだ。つまりホップズの想定する「万民の万民による闘争」の背景にある利己愛は理性の力によって生み出されたもの、社会化された人間の一側面を描いたに過ぎないとする。
次に第二部として、自然状態にあった人間がどのように、なぜ変容し、社会を構築し、不平等を積み重ねていったかを論じている。人間は人口増加に伴って、散り散りになって、様々な環境変化を味わった。その都度、人間は生活様式の変更を迫られ、火の起こし方などの知識を取得していった。そして知識が蓄積される中で、人間はあらゆる動物に対して自分が優位にたっていることに気がつく。そこに自尊心の萌芽が見られるのである。また人間は他の人間を観察することができた。その中で人間は自分の利益と安全のために従うべき最善の規則を見いだす。人間は「自分の安楽への願いが人間が行動する唯一の動機であることを見いだし、他人に援助を期待できる状況と競争状態を区別」できるようになった。そうして人間は知らず知らずの内に相互の約束とこうした約束を守ることの利点についての“曖昧な”考え方を身につけていったのである。そして狩りなどのための原初的な仲間付き合いにおいては分節化されない叫び声、身振りが普遍的な言語を構成していた。その後、進歩するについて彼らは家族を形成し、定住し始める。定住は利便性や効率性から、次第に集まって行われ、その地域の人間は同じ生き方と食べ物のために、習慣や特性が同じになっていった。また、人間は様々な事物を眺めて、それらを比べることに慣れ始め、知らぬうちに“美しさ”と“価値”という観念が生まれるようになり、これが好き嫌いの感情を芽生えさせるのである。いまや群れをなした人間はやがて、誰もが他人を眺め、誰もが他人に眺められたいと思うようになる。こうして尊敬と軽蔑、妬みや羨望、恥辱の概念が形成されていった。この尊敬の中に人間の不平等の萌芽はあったのである。この人間の発達時期は原初的な鈍感の状態と狂おしい利己愛が働く状態のちょうど中間にあり、最も幸福で、もっとも永続的ないわば「世界のまさに青年期」であったといえる。しかし、我々はその幸福な状態にとどまることは出来なかった。農業や鉄の利用はその理由の一端である。農業により、土地の耕作が始まると、土地の分配が避けられず、労働を加えた人は土地を“私有財産”とすることができるようになった。そして私有財産としての土地が拡張していくと、いずれ他人の土地を侵害せずに自分の土地を拡張できなくなる。ここにおいて、最初に運や怠惰によって土地を手に入れられなかった人々は土地という財産を富めるものから貰うか、奪うかしかなくなり、そこに支配と隷属、暴力と略奪が生まれたのである。こうして生まれた略奪は富めるものを常に戦争状態に誘った。しばらく争った後、彼らは永続的な戦争状態が自分にとっていかに不利なものであるか痛感した。そう感じた富める者たちは“自らの利害を守るために”、演説により戦争がいかに人間集団一般に対して悪い存在であるかを問い、団結を訴えた。こうして一部の野心家の利益のために人類全体を労働と隷属と貧困に服させる社会と法が構築されたのである。こうして構築された社会においては人民が自ら選んだ首長と契約を締結する(=社会契約)。契約を締結した当事者は法の遵守が義務づけられ、首長はすべての人民が自らの所有物を安心して享受できるように配慮すること、いかなる場合にも自分の利益よりも公共の利益を優先することを義務づけられる。またここで“契約”という概念の性質上、これらは撤回可能なものであることが強調された。しかしやがて選挙により選ばれていたはずの首長は自分の地位を子孫に世襲させたいと考えるようになり、人民も平穏な生活の中で従順に慣れていたが故に、それを容認した。そして首長は国家を自分の所有物の一つと見なすようになっていったのである。官僚も世襲化され、政治的地位の差が市民間の差異を生み、さらに不平等が深まった。こうして社会のあらゆる場所で対立が起き、首長はそのような状況を利用して、腐敗の限りを尽くすのである。これが不平等の行き着くところ、究極の場所である。“円環”は閉じられ、すべての人が再び平等になる。誰も何も所有せず、臣下は主人の意思の他にいかなる法も持たず、主人は自分の情念の他にいかなる規則ももたない。ここに残されたのは最強者の法のみであり、これは新たな自然状態である。これが現在の不平等を生み出した社会構造であり、我々は自然状態に戻ることはもはやできないのである。

感想、考察

 本授業を受講する中で、“社会契約説”に関して最も強い興味を覚えた。であるから、過去『孤独な散歩者の夢想』を読んだことで多少親近感があったルソーの代表的著作である『社会契約論』を読む予定であった。しかし授業において、インノケンティウス3世の悲惨な人間論を聞くに及んで、社会契約説の議論も含めた社会思想や哲学という学問の根幹にあるのは、各人がそれまでの人生の特殊な環境下で培われてきた様々な“人間観”ではないかと考えた。今まで経済学部生として勉強してきており、思想に関しては全くの無知である私は思想は常に論理的に構成されているものであるという偏見があったため、この考えは非常に新鮮であった。そこで『社会契約論』の背景にある彼の人間観が描かれた『人間不平等起源論』を中心にして読む次第になった。しかし、主題としては社会はどのように構成されているのか、あるいは社会の構成員としての我々が持つべき義務に関してなど、『社会契約論』の中に大きく関わる部分も多いため、適宜参考にしていければと考えている。では以下、本題に移る。

<ルソーの人間観・文化・文明観>
 ルソー(1712-1778)はスイス、ジュネーブの時計職人の息子として生まれた。彼は本書『人間不平等起源論』を著す前に様々な困難に遭遇している。母親は産後に死亡し、その後徒弟に出されたが、仕事が気に入らず逃亡。様々な地を放浪したあげく、ヴェネツィア駐在のモンテギュ氏の秘書になったが、 喧嘩別れ。そして37歳の時、ヴァンセンヌに幽閉されていたディドロに会いにいく途中で啓示体験を受け、その5年後の間に様々な作品を仕上げた。本書『人間不平等起源論』はその際の著作である。ルソー晩年の作品、『孤独な散歩者の夢想』の中で彼はこのように書いている。「人間でなくならないかぎり、かれらはわたしの愛情からのがれることはできなかったのだ。」晩年の彼の姿勢を40歳前後のルソーに当てはめるのは必ずしも正しくない可能性もあるが、それでもなお、私にはこの姿勢が既に『人間不平等起源論』の時期から、いやむしろ彼が根本的に感じていた、“人間への絶対的な愛”、しかし母の不在や家族からの逃亡、様々な喧嘩別れの中で味わった、親しい人間の“裏切り”の中で育まれた人間一般に対する“絶望感”。それがルソーを決定的に特徴づけているように思える。『人間不平等起源論』内でのルソーの人間観は、自然人が生来持っていたとする「憐れみの愛(ピティエ)」にあると考える。人間を汚く、どうしようもないものだと思っているのなら、「憐れみの愛」など構想しなかったであろう。ホッブズの「万人の万人による闘争」の背景にはただ「自己保存」だけがあった。これは私の感覚にもひどく合致している。人間は生物である以上、生存をその第一目標としており、それは家族と触れ合うなどの中で“育まれた”ものであると考えることもできる。しかし、ルソーはそれを本質として備わったものだと見なした。そして文化・文明全体を、悪徳を形成した諸悪源であると見なすのである。この文明に対する態度は産業革命(18世紀半ば〜19世紀)前にはひどく異端な、珍しいものに思える。
 私はルソーの人間観には賛同を示したい一方で、文化・文明論には一定の違和感を覚える。そもそも私が文化と文明をどう考えているか。“人間に役立つものとしての文明”と“人間の信用の中で生まれる文化”と捉えている。文明は明らかに目に見えるが、文化は目に見えない。つまるところ、文化とは自己理解だと私は考えている。それはきっと身体的な、物理的自己ではなく、社会として、まとまりとしての自己理解である。その意味では絵画、音楽、文化は一種の自己表現である。人はあらゆる方法、メディアを使って自分を表現する。だから、おそらく文化は進化しない。深化するものなのだ。文明は進化し、たとえそれが人間を自然人から遠ざけていったとしても、文化による自己理解で常に“人間らしさ=自然人らしさ”を失わない。それが文化と文明の補完的な関係性なのではないかと考えるからである。また開発経済学を専攻する身として、文明は明らかに人それ自体を助けてきた点を強調しておかずにはいられない。自然人には病気はなく、仮に文明がそれを生み出したとしても、文明はそれをさらに乗り越えるだろう。乗り越えることでさらなる問題が起こるかもしれないが、それすら人間は乗り越える。そのプロセスを私自身はポジティブに捉えたいと思う訳である。

<人間の不平等と社会システム>
 『人間不平等起源論』の中での主張は、人間の不平等は本来的なものではなく、社会が生み出したものであるということである。この議論は私にとっては納得たるものであった。しかし、例えばアメリカではそう思われてはいない。ロールズの議論では第一原理として平等な自由の原理、第二原理として格差原理と機会均等原理が挙げられているが、特にアメリカでは(そして日本でもほぼ同様に)機会均等原理の浸透を国民が広く信じている。そこでは不平等に苛まれる人たちは、教育や住居、飲食等において均等な機会を与えられながら、それを有効活用できなかった、あるいは努力できなかった“負けた人”というレッテルを張られるのである。しかし、ルソーはその機会均等という概念そのものを否定的に捉えている。つまり機会均等は前提として、その後の格差を是認していると捉えるのである。ルソーは本書の中で文明の進化が示す先に関して、“円環は閉じられ”と表現している。つまり自然状態から進みだしたが最後文明の進歩は加速度的に進み続け、社会が構築され、腐敗し、平等に戻る。そして、そこからは再度クーデターにより、社会が再構築され、さらに腐敗し、という循環を辿り続けるという社会観がそこにはある。すなわち社会の孕む根本的な不平等は全く改善されず、全ての権利が剥奪され、一人の人間に集中するというネガティブな意味で平等になるだけなのである。現代から見るとき、これに関しては一定の疑問を抱かざるを得ない。そもそも“不平等”であるとは、どういう面での不平等か。具体的には政治的、経済的、家庭的、人間関係的、(身体、精神込みの)能力的、外見的など様々ある。そしてこれらの不平等は彼の生きていた18世紀よりも改善されているように思える。私はルソーの言っていたことが間違っている、と言う安い結論に持ち込みたいわけではないし、そもそも本書は未来予測の本ではない。
 ルソーの理論を21世紀に当てはめるのであれば、二つの考え方がある。まず第一に知らぬ間に権力が一部に集まっており、かりそめの平等(ルソーのいうところの“新たな自然状態”)にいる可能性である。そして次に、ルソーの理論はルソー以前の社会に対しては当てはまっていた、整合性を持っていたが、現代社会はその円環からの抜け道を見つけ、真の平等への道を歩み続けたと考えるかどちらかである。私は後者であると信じている。なぜそう考えるか。私は本書を読んでいる中で、ルソーがある思考の“制約”の中で、議論展開をしているように考えるからである。その制約は“ヨーロッパ”という制約である。彼は人生を通して、様々な国を来訪したが、もれなくヨーロッパ内の国であった。ヨーロッパは一種の同質性を持ち、いずれもある程度同じ速度で成長・進化していった。しかし、ヨーロッパという閉じられた地域ではなく、世界を眺めるとき、私達はルソーのいう“円環”の様々な段階にいる諸国家を眺められるようになった。ヨーロッパは発展途上国で起きる様々な紛争から、自分たちがかつて起こした戦渦の恐ろしさを再度見返すことができる。発展途上国も発展を既に遂げている先進国の失敗を見ることができる。我々が世界的な視点に立つとき、我々はそこから学ぶことができるようになった。その結果、私達は恐ろしい円環の存在に気づき、学び、そこから抜け出るすべを模索しだしたのではないだろうか。イスラーム国のニュースが流れるたび、我々は強い反発を覚え、自分の世界を見返す。グローバリゼーションが一部として、円環の再構築に歯止めをかけていると私は考えた。

<社会契約とは何か>
 結局“社会契約”とはどのようなもので、なぜそのような社会思想が求められたのか。考えたところ、見方は4つあると思う。第一に国家権力の“正当性”を擁護するものとしての見方である。実にホッブズの思想は国家への反駁可能性の否定という点で特徴付けられるが故に、その側面が強かった。しかし少なくともルソーのように反駁可能性を認めていたとしても、現国家とは契約を結んでおり、人々の自由を犯さない限りにおいて、一定の正当性を持つと捉えることも可能である。第二にあらゆる国家体制内で守られるべきルールを体系化したもの、という見方もあると考える。このルールは大衆に向けたものだけではなく、統治者が政治を行う上で侵してはいけない領域を示すものとして存在する。第3に人間が社会を生み出したその根本原因を考える思想とも捉えられる。先述のルソーの人間観のように、自然法下の人間とはいったいどのような存在であって、人間はなぜ群れを作り、言語を作り、社会を作り、法を作ったのか、その起源を問うということである。そして最後に各抽象概念としての正義や自由、平等間のプライオリティを見極めるためのものである。社会がどのように形成されてきたかを考察することで、その“契約”の中に盛り込まれた“条項の順番”を知ることが出来るのではないか、ということである。この辺りはルソー、カント、ロールズの間にある結節点なのではないかと考えた。
 ではルソーの『社会契約論』の主題はなんだったのか。ルソーは『社会契約論』の第一編において以下にように記載している、「私は、人間をあるがままの姿でとらえ、法律をありうる姿でとらえた場合、社会秩序のなかに、正統で各日な統治上のなんらかの規則があるのかどうかを研究したいと思う」。つまりルソーは私でいうところの第2の見方で書いたと考えて良さそうである。しかし、ルソーや彼と交流のあった啓蒙思想家としてのディドロはなぜ社会のルールなどを考え始めたのであろうか。少なくともルソーは1728年、16歳の頃に地元ジュネーブのカルヴァン派のキリスト教からカトリックに改宗している。彼らの行為はカトリックの教えに反抗するものではないか。(実際、社会契約論は禁書扱いにされている)そこには18世紀の世相があると考える。ヨーロッパは永らく絶対王政を正統化するボシュエの“王権神授説”が唱えられてきた。他方、『戦争と平和の法』などで有名なグロティウスによる人間が生まれながらにして持っている権利を保証する法としての自然法は王権神授説に対する思想として存在してきた。17世紀の絶対王制下のヨーロッパ各国は人民に対して、大きな制約と不平等を強いてきた。例えばフランスでは“ナントの王令”が破棄され、プロテスタントを迫害する姿勢を示した。しかし18世紀に入り、ルイ14世も1715年に亡くなり、ここからフランス含め、各ヨーロッパ王制は次第に弱体化を辿ることになる。すると交易が発展する中で力を得たブルジョワジーが官職売買により、政治に介入してくる。そこで権力や地位よりも、金が力を持つなど、様々それまで当たり前であったものが否定されてくるのである。そこにおいて啓蒙思想家や社会契約説のロックやルソーは国家の起源、ルールを問い直し、現国家体制が抱える矛盾を問いつめるようになったと考えて良いだろう。
 ここでルソーの社会契約説を現代の文脈で読み返すのであれば、どうなるだろうか。私は第4の意味、すなわち諸概念のプライオリティを計る上でルソーの考え、社会の起源論は深い価値を帯びるだろうと考えている。本レポート執筆時、イスラーム国への人質問題が世間をにぎわしている。またサウジアラビアでの反イスラーム的なウェブサイト作成者への非人道的なむち打ちの刑執行、またそれに対するアメリカの自由論の押しつけと度重なる統治失敗の中で、世界の一部は“価値の相対化”というマジックワードに踊らされているように思う。今まで虐げられてきた価値を表に出せる“表現の自由”は歓迎される一方で、何をしても良い訳ではない。イスラーム国の非人道的行為は“イスラームの諸原理に従うから”といって(実際にはイスラームには西洋的な民主主義がなじむ素養はあると私は考えるのだが)許容されるものではないと考えるのである。ここにおいて、世界中どこでも普遍的な社会形成の思想、そこから導きだされる普遍的な価値観のプライオリティ、自然権は再度見直されるに足るものであると考えるのである。
<現代における一般意思の可能性>
 ルソーの“社会契約論”を特徴付けるのは、一般意志と特殊意志の概念導入につきるように思われる。ルソーは一般意思に関して以下のように述べている。「意志は一般的であるか、そうでないか、すなわち、それは人民全体の意志であるか、人民の一部の意志にすぎないかのどちらかだからである。前者の場合には、表明された意志は主権の行為であり、法律となる。後者の場合には、それは特殊意志か、行政機関の行為にすぎず、せいぜい命令であるにすぎない。」また一般意志は特殊意志の集合ではないとされる。ルソーの社会契約の概念において、ある国家の中にいる人は3つの存在である。法を作成し、政治に参加する“市民”、自分が作成した法の従う身としての“臣民”、そして政治参加者としての市民の集合体としての“人民”である。ここで一般性はどのように発揮されるか。それはつまり(特殊的意志を持った)臣民と(一般意志の視点に立つ)市民の契約こそがルソーの中の“一般意志”と言えるだろう。
 ここにルソーの一般意志の難しさが潜んでいる。つまり特殊意志を持つ、あるいは特殊意志に縛られざるを得ない我々は「いかにして一般性の視点に立ちうるか」。人間の市民化の条件、方法に関してはルソーの著作内で記述はない。ルソーは『社会契約論』の中で、小国が民主制に向くとするが、いずれにせよ政府権力に何かしらの制限をしない限り、特殊意志からの脱却は難しいのではないか。例えば、現代日本の選挙制度においては候補人は各地域を代表して選ばれた存在であり、彼らは正確には“市民”ではない。また話をグローバルに拡張するのであれば、ある国の国民一般に最適な選択が地球温暖化などの問題で、グローバル市民としては最適でないことは十分考えられる。私達はすでに“日本国民”であるだけではない。中華圏民であり、アジア圏民であり、グローバル人民なのである。この複数視点に立つからこそ、私達は“市民”としてルソーの時代よりも難しい立場に立たされているのである。このグローバルな決定のを下す国際連合は果たして、一般意志を体現した全人類的な意思決定を下せているだろうか。安全保障理事会の存在などを考えると明らかにそうではない。このような現状があるとはいえ、ルソーの議論が古い、あるいは間違っている訳ではない。むしろ我々が今後、選挙での意思決定や様々な普段の行動において、自分はどの視点から意思決定すべきかを考えるべきであるのだ。そのような観点から述べるのであれば、具体的に日本国民が政治に対して意志表明できる場が国会議員の決定だけであるのは物足りない。アジア人としてはどう考えるか、世界民としてはどう考えるかが問われない、あるいは一つの立場から意思決定せざるを得ない状況に押し込まれているのである。この文脈でいうと、昨今のSNSの登場は政治的意思決定を難しくする一方で、新たに政治に参画する方法を提供した点において評価されるべきなのかもしれない。

<まとめ>
 今まで「ルソーの人間観・文明観」、「人間の不平等と社会システム」、「社会契約とは何か」、「現代における一般意思の可能性」の四テーマについて、稚拙ながら考察をしてきた。自分の考察を全て再読した後に気づくのは、私が至る所で現代社会への応用を試みている点である。300年近く前の天才が著した古典はあらゆる組織、時代、空間を横断し得ることが実感できた。経済学部生として近代経済学を勉強していると、様々なスキルが身に付くことを感じるが、これらの古典から感じるのは人間としてのマインド、生き方の変化であった。本授業を通して、古典の重要性を確認できたことは非常に意味があったと感じている。
 また今回、ルソーの原著を読んだが、未だルソーの衝撃的な思想の深さを私はほとんど理解していないとも感じている。またルソーの論述が正しいか、正しくなかったは結論がでない議題であろう。しかし私が最も共感を覚え、心打たれたのはルソーの著作全体に広がる、政治的不平等への、人間社会一般への弛まぬ情熱である。情熱がなければ、議論による対立で『孤独な散歩者の夢想』で描かれるような孤独な晩年を送ることがありえようか。そこにおいて、ルソーの著作は他の作者よりも優れ、人を読む気にさせるのではないかと考える。自分の人生の各所で読むことで彼が感じた情熱を忘れないようにしつつ、彼の思想の深淵に触れられたらと考えている。

『頭のいい大学四年間の生き方』(和田秀樹)

『頭のいい大学四年間の生き方』(和田秀樹)

ブリーフィング

大学四年間は学生と社会人の間のモラトリアムとして語られることが多いが、むしろ積極的に”勉強”し、将来へのステップとしようという主張。

第一章 大学、この知的空間をどう生きるか
激変する世の中で、一人で食べていくために自ら積極的に機会を見つけ、飛び込むべき。

第二章 学生時代はベンチャー精神が勉強の養分になる

第三章 大学の勉強にもテクニックがある

第四章 大学四年間の勉強に幅広くアプローチする

第五章 大学時代の蓄積を長い人生に活かすために
良き師に会うことが重要

感想

正直目新しい内容ではなかった。電車の中だけで読み終わったので、大学入学前に読むには適する。
リクルートの旧・社訓「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」 的なこと。

2015年5月7日木曜日

『野蛮人の読書術』(田村耕一郎)

『野蛮人の読書術』(田村耕一郎)

ブリーフィング
ここ最近巷で良く聞く「リベラルアーツ」とは日本語でいう「教養=文学者などが持つ生活感には欠ける、実用性が低い知識群」ではなく、「自由に生き抜く術」、つまりはこの複雑な世界をリードするためには不可欠な素養である。そしてその自由になるべく学ぶべき「素養」も時代によって当然変化しており、現代では

・先進課題
・先端科学、数学、哲学
・宗教、思想、文化、歴史
・経済、金融
・政治、外交、地域研究
・コミュニケーション能力

の6分野であるとしている。
そして、これらの素養を得るために筆者は「読書」が最も効率的であると説く。
「読書」は実際に会うのは難しいような、その分野の第一人者と「一対一」で対話し、知を学ぶ行為だからである。

そして、続く本編では自分のToDoで忙しい現代人に必要な「効率の良い読書法」をその道のプロの具体例を聞きながら、多数提示している。

第一に感じるのは
やはり、「アウトプット」の重要性だ。

現在、大学のゼミなどで一冊の本に関して議論することはあるが、
自分が今読んだ本に関して、それを読んでいる友達を探しだし、議論をするのは難しい。

よって、今回このブログを始めた訳である。

その他にも

・「目的意識」を持って読むこと。
・ 速読は無理にする必要はないということ
・ 本は最後まで読む必要はない

ということなどにも興味を持った。

語彙

キュレーション・・・情報を収集し、まとめたり、分類したりして、新しい価値を持たせること。
現代では、インターネットの普及による情報の氾濫より、よりキュレーションスキルが問われる。

サンクコスト・・・埋没費用。回収がどうしてもきかないコストのこと。

アイビーリーグ・・・米国東部の名門大学の一群。イェール・ハーバード・プリンストン・コロンビア・ ダートマス・コーネル・ペンシルベニア・ブラウンの8大学

ガバナンス・・・組織や社会に関与するメンバーが、主体的に関与を行う意思決定、合意形成システムのこと。⇔ガバメント

感想

まず以下の二点において価値のある書籍であると考える。

・第三章の「ブックリスト」が「東大EMP」が600万円で提供するプログラムで読まれるもので、
質が高いこと。事実、私も一冊だけ読んだ本があったが、名著であった。

・一般の「読書術」のように、「僕がこれでできて、これが効率的なんだから、こうするべきだ」的な文章ではなく、「多様な読書術」を紹介している点。

後者においては結局の所、正当な読書術などというものは存在せず、読書によって成功している、力をつけている人であってもその方法は様々であり、真に受けすぎないことが重要であると感じた。いままで考えになかった読書法を知れる点で面白い。

しかし、「最高の読書術」を学ぼうと期待している読者は「結局どうすればいいの?」ということになりかねないので、注意が必要。

おすすめしている本のレベルからしても対象は比較的読書経験がある、地力があるひと向けである。

ぜひ、ここにあった本をここ何ヶ月かで読破していきたい。


ではでは

『ザ・プロフェッショナル』(大前 健一)


『ザ・プロフェッショナル』(大前 健一)
※以下、過去の書評故にフォーマットは異なる

この本の主題は題名の示す通り、「(真の)プロフェッショナルとはなにか」そして、真のプロフェッショナルになるためにはどのような「力が必要なのか」である。
 まず著者はプロフェッショナルの定義を「絶対的な顧客主義」に見ている。つまり顧客のニーズ、ウォンツをしっかりと把握し、それを満たすような製品あるいはサービスを提供することが、定義なのである。しかし著者の主張ではなぜ顧客こそ真に重要で、彼らに尽くすことがプロフェッショナルたりうるのかという理由付けである。文中では「お前の給料は顧客が払ってくれている」という記述が出てくるが、なぜ「顧客が払ってくれている」→「顧客を大事にしなくてはならない」という理論が成立しうるのか。顧客は確かに我々の給料となる金を供給してくれる存在であるが、我々は彼らにそれなりの「商品」を提供している。いわば「ギブ&テイク」の関係なのではないか。もし私がここに意義付けをするのであれば、以下のような話しを展開すると思う。
(我々人間の生きる目的の第一として「子孫の繁栄」がある。それは生物として当然に課せられた課題である。(なぜ種を繁栄させるのかはまた考える必要があるように思う)しかし心あるいは精神を持ち合わせ、複雑な社会を作り上げて、互いに寄り添いながら生きている人間はどのようなモチベーション(根本的な)かは知らないが、「他者への配慮」「他者への寄与」をその生存の目的としているように考える。そして会社において、ある個人が影響を与えうる対象はやはり顧客である。そう意味で顧客が大切なのだ。)
しかし、上記のような考え方は他者への配慮を美徳としてではなく、生存の目的までアとしてしまっている時点で一定の批判をうけるように思われる。

次に記述したいのが、著者が「プロフェッショナルに必要な条件としてあげている4つの条件の位置づけである。(先見する力、構想する力、議論する力、矛盾に適応する力)これらの力が実際のビジネスのシチュエーションでどのように活きていく、活かされていくのかについて記述しようと思う。普段ビジネスをやる際に考えられる、フェーズを最大限大まかに分類すると「①未来のヴィジョンを描く→②計画をたてる→③行動する」の3つになると思う先見する力は①に関して、構想する力は②、議論する力は特に②③において、矛盾に適応する力は全てにおいて、活きるものであると思った。

『経済学に何ができるか』(猪木 武徳 )

『経済学に何ができるか』(猪木 武徳) 
※以下、古い書評故にフォーマットが異なる

 昨今、日本において特に「経済学は実際なんの役にも立たない」というニヒリズム的な論調が目立つのは確かである。実際経済学を学んだからといって、正しい政策処方箋が出せる訳ではないし、景気の変動も分からないことが多い。
 では経済学は本当に価値のない学問なのだろうか。本書では経済学がもたらす知見の可能性とその限界について語っている。
 過去の著作を見る限り、筆者は経済学史・思想を研究されている人らしい。そのことからか、アダムスミスやケインズ、ナイトなどの思想に頻繁にふれ、現代の諸制度を概観するのである。

【印象的な言葉】

  「昨日の自分」と「今日の自分」が異なった考えや感情をもちうるからこそ、「移ろいやすい自己」をなんらかの形でしばらなければならない。

  政策提言は常に全き論証ではなく、主張という性格を帯びざるを得なくなる。

  ここで言う「人間として気持ちよく住める建物」は善き生活のための善き経済政策に対応する物であり、「骨」や「柱」が経済理論に相当すると考えてもよいだろう。

・経済学者による専門的判断だけではなく、健全な価値観と判断能力を持ったアマチュアの生活者としての知恵も必要とされる。

2015年5月5日火曜日

『戦争の条件』(藤原帰一)

『戦争の条件』(藤原帰一)

ブリーフィング

国際政治学の権威、藤原帰一教授が「kotoba」という雑誌に連載していた「国際政治の練習問題」をもとに書き下ろしを追加した戦争と平和に関する概説書。

第一章 戦争が必要なとき

戦争が起きるとき、どのような理由によるか。他国からの侵害か、他国内部での虐殺か、圧政による飢餓か。
他国での事件に介入するときの道理、不介入の道理はどこにあるのか。

第二章 覇権国家と国際関係

リアリズム:無政府状態としての国際政治
リベラリズム:国際的な価値と制度の共有と拡大に注目

覇権国家=世界政府???
果たして覇権国家は必要か。覇権国家は一方で、
特定の文化やイデオロギーの元で選出された政府により構築されているのもまた事実

第三章 デモクラシーの国際政治

民主主義=平和のような言説が目立つが必ずしもそうではない。
文民支配も同様であり、イラク戦争では軍はむしろ懐疑的であった。

ここに国際関係と民主主義のジレンマがある。

第四章 大国の凋落・小国の台頭

戦争の発端として権力移行論がある。
すなわち、覇権を持っている国に対抗する国があるとき、
戦争が起こるという議論である。
これらの議論はかつて異端であったが、今では一つの言説として力を持っている。

しかし、現在”覇権”を握るには”軍事”と”経済”の両面があり、
経済の覇権闘争は必ずしも戦争を引き起こさない。
なぜなら現代社会において、各国の経済は密接につながっているからである。

第五章 領土と国際政治

戦争は領土闘争においても起こる。
領土はかつて、国家利益拡大手段であった。
それは従来、領土の正統性が王家の世襲によるものであったからだ。
王家が倒されると、国際法と”国民”の概念が芽生え、
イレディンティズム(=民族統一主義、統治者と被統治者の同一化)が叫ばれる。


第六章 過去が現在を拘束する

過去の戦争の記憶は時間の経過で消える訳ではない。
問題なのは、日本において忘れられない”戦争の記憶”は
被害者としての戦争の記憶であり、加害者としてではない。
これは頻繁に起こることであり、「戦争の語りは、その戦争を戦った国民のなかの犠牲者を中核として構成されることが多く、国民以外の犠牲に目を向けられることは少ない」
のである。


第七章 ナショナリズムは危険思想か

文化は多様であるが、同時にそれらを越境する普遍性がある。
もしそれがないと仮定するならば、それらは文化相対主義的であり、ニヒリズムに陥る。
近代においては民族自決が前提議論になっているが、現実世界においてはマイノリティが多数存在する。
彼らと共存していくことは本当に可能であるのか。


第八章 平和の条件

核開発に対してどのように対応していけば良いのか。
まず考えるべきは誰が行動の主体であるかである。
日本にとってイランの核開発は重要ではないが、アメリカからすれば
最重要である。

ではA国とB国間で戦争を起こさせない条件とはなにか。
・軍事的な均衡
・A国、B国間の軍事力放棄
・戦争の違法化、始めた国への罰を設定

リアリズムも平和主義もリベラリズムも必ずしも平和をもたらすとは限らない。
そのようなどの観念にも頼れない中、暴力と不正を回避する。それが可能かを考えることが平和の条件を考えること。


感想

国際関係は(色がない経済と異なり)自分の国に引き寄せた議論をしがちである。
それをA国、B国などと普遍化することで、”国際社会”のルールを理性的に議論できているように思う。

個人的には本書の意図は『政治的思考』(杉田敦)と同様に感じられた。つまり国際関係における根本的な問題点を読者に投げかけている、あるいは門を開いている。門を開く本は他にも多く存在するが、ここでは筆者の意見を極力排している部分が注目である。


普段当たり前のように見ているニュースの裏には考えられないほど深い戦略的な読み合い、あるいは単純な偏見が含まれている。これらのネイションパワーを考える際にはぜひ本書を開いてほしい。

2015年5月3日日曜日

『旅する力』(沢木耕太郎)

『旅する力』(沢木耕太郎)

ブリーフィング・感想

かの有名な『深夜特急』の補足ノート・出発前夜という位置づけの本書。
エッセイのような本であるから、ブリーフィングするのは難しい。
それよりも個人的に印象的だった文をいくつかのせておきたい。

「私が未知の外国を旅行するときにほとんどガイドブックを持っていこうとしないのも、できるだけ素のままの自分を異国に放ちたいからなの、と、放たれた素のままの自分を、自由に動かしてみたい。実際はどこまで自由にふるまえるかわからないが、ぎりぎりまで何の助けも借りないで動かしてみたい」

ガイドブックをもって、一ヶ月ヨーロッパをうろちょろしたことがある。そのなかで感じたのは次第に旅が”行くための旅”になっていたということである。パリを訪れた際、バスティーユ牢獄跡地、ルーブル、ポンピュドウー、エッフェル塔など短期間で全て廻ろうとしたのであるが、振り返ってみると記憶が非常に曖昧であるということである。旅が人生のようなものであるならば、やはり”どこかへ至るための人生”はどこかむなしい。私達は常にその過程を楽しむべきなのだ。

「ひとり旅の道連れは自分自身である。周囲に広がる美しい風景に感動してもその思いを語り合う相手がいない。それは寂しいことは違いないが、吐き出されない思いは深く沈潜し、忘れがたいものになっていく」

一人旅は寂しい。これは違いない。しかしだからこそ、私は自分と向き合わなくてはならない。だからその分、そこにある私の感動や記憶は深くまで眠るように沈んでいく。

「《言語のなかには何があるのであろうか? 言語は何を覆っているのであろうか? 言語はわれわれから何を奪い去るのであろうか?》」

これは非常に興味深い問いである。私達はなにかしらの感動を言語化することでいったいなにを失っているのであろうか。一重に「感動した」といったとき、その感動はいかほどのものか。私にその風景の色はどのように見え、匂いはどのようなもので、風はどのように感じられただろう。言語化は感覚の共有のために機能すると共に多くのものを削ぎ落とす。その熱をいかように伝えるか。それが文章家の力量なのであろう。


「重要なのはアクションではなく、リアクションだというのは、紀行文でも同じなのではないだろうか。どんなに珍しい旅をしようと、その珍しさに頼っているような紀行文はあまり面白くない。しかし、たとえ、どんなにささやかな旅であっても、その人が訪れた土地やそこに住む人との関わりをどのように受け止めたか、反応したかがこまやかに書かれているものは面白い。」

これも上と同じく、旅の中で何を感じるかということである。時代はコンテンツそのものよりも、ストーリーに移り変わっている。それを象徴するようなものではないか。

「かつて、私は、あるインタヴューに答えて、旅をすることは何かを得ると同時に何かを失うことでもあると言ったことがある。しかし、年を取ってからの旅は、大事なものを失わないかわりに決定的なものを得ることもないように思えるのだ。」

金銭的な制約もなく、あまりに経験を積みすぎた時には20代のような感動は味わえないのであろう。

「大事なのは、あくまでも予定を守り抜くことと、変更の中に活路を見出すことのどちらがいいか、とっさに判断できる能力を身につけていることだ。それは、言葉を換えれば、偶然に対して柔らかく対応できる能力を身につけているかどうかということでもある。そうした力は、経験や知識を含めたその人の力量が増すことによって変化していくものだろうが、それはまた、思いもよらないことが起きるという局面に自分を晒さなければ増えてこないものである。だからこそ、若いうちから意識的に、思いもよらないことが起きうる可能性のある場というものに自分を晒すことが重要になってくるような気がするのだ。」

不確実性にいかに対応するか。それは現代のビジネスにおいても非常に重要なスキルの一つであるように思う。そして、それを得るためには”場慣れ”するしかない。道を踏み外した人を嫌う、日本社会において道を踏み外すか外さないかのギリギリの一歩を見極める”距離感”は大切である。


///8月24日再読///////

「調査本部」における徹底的な指導が後の作家人生を左右するほど重要であった。
→師弟関係が非常に重要