2015年5月3日日曜日

『旅する力』(沢木耕太郎)

『旅する力』(沢木耕太郎)

ブリーフィング・感想

かの有名な『深夜特急』の補足ノート・出発前夜という位置づけの本書。
エッセイのような本であるから、ブリーフィングするのは難しい。
それよりも個人的に印象的だった文をいくつかのせておきたい。

「私が未知の外国を旅行するときにほとんどガイドブックを持っていこうとしないのも、できるだけ素のままの自分を異国に放ちたいからなの、と、放たれた素のままの自分を、自由に動かしてみたい。実際はどこまで自由にふるまえるかわからないが、ぎりぎりまで何の助けも借りないで動かしてみたい」

ガイドブックをもって、一ヶ月ヨーロッパをうろちょろしたことがある。そのなかで感じたのは次第に旅が”行くための旅”になっていたということである。パリを訪れた際、バスティーユ牢獄跡地、ルーブル、ポンピュドウー、エッフェル塔など短期間で全て廻ろうとしたのであるが、振り返ってみると記憶が非常に曖昧であるということである。旅が人生のようなものであるならば、やはり”どこかへ至るための人生”はどこかむなしい。私達は常にその過程を楽しむべきなのだ。

「ひとり旅の道連れは自分自身である。周囲に広がる美しい風景に感動してもその思いを語り合う相手がいない。それは寂しいことは違いないが、吐き出されない思いは深く沈潜し、忘れがたいものになっていく」

一人旅は寂しい。これは違いない。しかしだからこそ、私は自分と向き合わなくてはならない。だからその分、そこにある私の感動や記憶は深くまで眠るように沈んでいく。

「《言語のなかには何があるのであろうか? 言語は何を覆っているのであろうか? 言語はわれわれから何を奪い去るのであろうか?》」

これは非常に興味深い問いである。私達はなにかしらの感動を言語化することでいったいなにを失っているのであろうか。一重に「感動した」といったとき、その感動はいかほどのものか。私にその風景の色はどのように見え、匂いはどのようなもので、風はどのように感じられただろう。言語化は感覚の共有のために機能すると共に多くのものを削ぎ落とす。その熱をいかように伝えるか。それが文章家の力量なのであろう。


「重要なのはアクションではなく、リアクションだというのは、紀行文でも同じなのではないだろうか。どんなに珍しい旅をしようと、その珍しさに頼っているような紀行文はあまり面白くない。しかし、たとえ、どんなにささやかな旅であっても、その人が訪れた土地やそこに住む人との関わりをどのように受け止めたか、反応したかがこまやかに書かれているものは面白い。」

これも上と同じく、旅の中で何を感じるかということである。時代はコンテンツそのものよりも、ストーリーに移り変わっている。それを象徴するようなものではないか。

「かつて、私は、あるインタヴューに答えて、旅をすることは何かを得ると同時に何かを失うことでもあると言ったことがある。しかし、年を取ってからの旅は、大事なものを失わないかわりに決定的なものを得ることもないように思えるのだ。」

金銭的な制約もなく、あまりに経験を積みすぎた時には20代のような感動は味わえないのであろう。

「大事なのは、あくまでも予定を守り抜くことと、変更の中に活路を見出すことのどちらがいいか、とっさに判断できる能力を身につけていることだ。それは、言葉を換えれば、偶然に対して柔らかく対応できる能力を身につけているかどうかということでもある。そうした力は、経験や知識を含めたその人の力量が増すことによって変化していくものだろうが、それはまた、思いもよらないことが起きるという局面に自分を晒さなければ増えてこないものである。だからこそ、若いうちから意識的に、思いもよらないことが起きうる可能性のある場というものに自分を晒すことが重要になってくるような気がするのだ。」

不確実性にいかに対応するか。それは現代のビジネスにおいても非常に重要なスキルの一つであるように思う。そして、それを得るためには”場慣れ”するしかない。道を踏み外した人を嫌う、日本社会において道を踏み外すか外さないかのギリギリの一歩を見極める”距離感”は大切である。


///8月24日再読///////

「調査本部」における徹底的な指導が後の作家人生を左右するほど重要であった。
→師弟関係が非常に重要




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