2015年5月5日火曜日

『戦争の条件』(藤原帰一)

『戦争の条件』(藤原帰一)

ブリーフィング

国際政治学の権威、藤原帰一教授が「kotoba」という雑誌に連載していた「国際政治の練習問題」をもとに書き下ろしを追加した戦争と平和に関する概説書。

第一章 戦争が必要なとき

戦争が起きるとき、どのような理由によるか。他国からの侵害か、他国内部での虐殺か、圧政による飢餓か。
他国での事件に介入するときの道理、不介入の道理はどこにあるのか。

第二章 覇権国家と国際関係

リアリズム:無政府状態としての国際政治
リベラリズム:国際的な価値と制度の共有と拡大に注目

覇権国家=世界政府???
果たして覇権国家は必要か。覇権国家は一方で、
特定の文化やイデオロギーの元で選出された政府により構築されているのもまた事実

第三章 デモクラシーの国際政治

民主主義=平和のような言説が目立つが必ずしもそうではない。
文民支配も同様であり、イラク戦争では軍はむしろ懐疑的であった。

ここに国際関係と民主主義のジレンマがある。

第四章 大国の凋落・小国の台頭

戦争の発端として権力移行論がある。
すなわち、覇権を持っている国に対抗する国があるとき、
戦争が起こるという議論である。
これらの議論はかつて異端であったが、今では一つの言説として力を持っている。

しかし、現在”覇権”を握るには”軍事”と”経済”の両面があり、
経済の覇権闘争は必ずしも戦争を引き起こさない。
なぜなら現代社会において、各国の経済は密接につながっているからである。

第五章 領土と国際政治

戦争は領土闘争においても起こる。
領土はかつて、国家利益拡大手段であった。
それは従来、領土の正統性が王家の世襲によるものであったからだ。
王家が倒されると、国際法と”国民”の概念が芽生え、
イレディンティズム(=民族統一主義、統治者と被統治者の同一化)が叫ばれる。


第六章 過去が現在を拘束する

過去の戦争の記憶は時間の経過で消える訳ではない。
問題なのは、日本において忘れられない”戦争の記憶”は
被害者としての戦争の記憶であり、加害者としてではない。
これは頻繁に起こることであり、「戦争の語りは、その戦争を戦った国民のなかの犠牲者を中核として構成されることが多く、国民以外の犠牲に目を向けられることは少ない」
のである。


第七章 ナショナリズムは危険思想か

文化は多様であるが、同時にそれらを越境する普遍性がある。
もしそれがないと仮定するならば、それらは文化相対主義的であり、ニヒリズムに陥る。
近代においては民族自決が前提議論になっているが、現実世界においてはマイノリティが多数存在する。
彼らと共存していくことは本当に可能であるのか。


第八章 平和の条件

核開発に対してどのように対応していけば良いのか。
まず考えるべきは誰が行動の主体であるかである。
日本にとってイランの核開発は重要ではないが、アメリカからすれば
最重要である。

ではA国とB国間で戦争を起こさせない条件とはなにか。
・軍事的な均衡
・A国、B国間の軍事力放棄
・戦争の違法化、始めた国への罰を設定

リアリズムも平和主義もリベラリズムも必ずしも平和をもたらすとは限らない。
そのようなどの観念にも頼れない中、暴力と不正を回避する。それが可能かを考えることが平和の条件を考えること。


感想

国際関係は(色がない経済と異なり)自分の国に引き寄せた議論をしがちである。
それをA国、B国などと普遍化することで、”国際社会”のルールを理性的に議論できているように思う。

個人的には本書の意図は『政治的思考』(杉田敦)と同様に感じられた。つまり国際関係における根本的な問題点を読者に投げかけている、あるいは門を開いている。門を開く本は他にも多く存在するが、ここでは筆者の意見を極力排している部分が注目である。


普段当たり前のように見ているニュースの裏には考えられないほど深い戦略的な読み合い、あるいは単純な偏見が含まれている。これらのネイションパワーを考える際にはぜひ本書を開いてほしい。

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