2015年5月30日土曜日

文化と文明と東洋と西洋と日本絵画と西洋絵画

【文化と文明】

他の方も記載していたが、”人間に役立つものとしての文明”と
”人間の信用の中で生まれる文化”という観点は興味深かった。

“文化”と“文明”を上記の意味で捉える時、文明は成果が明白である。
新しい社会技術やシステム等、目に見える”進化”がそこにはある。

では”文化”とは結局どのようなもので、それが”進化”していくとはどういうことか。
絵画は文化である。音楽もそう。文学もまた。
そして地域ごとの人間関係のあり方も同様文化であろう。
そう考えると、余計に分からなくなる。

ふっとノートを開き、上村さんの言葉を思い出して見る。
「戦中、鎖国によって刺激を失った日本文化は疲弊した」
「争いの中に文化の進化はなく、謙虚さによってこそ生まれる」

この言葉から類推するに、文化とは結局”自己理解”ではないかという結論に達した。それはきっと身体的な、物理的自己ではなく、社会として、まとまりとしての自己理解。
その意味では絵画、音楽、文化は一種の自己”表現”である。
人はあらゆる方法、メディアを使って自分を表現する。
だから、おそらく文化は”進化”しない。”深化”するものだと私は思う。


【東洋と西洋】

西洋と東洋の対比は良く聞く。
しかし少し考えてみると、西洋とはなにで、東洋とはどこで、
それ以外の地域はどうなっているのか。
そもそもアフリカ人にとって、南米人にとって、
西洋と東洋という概念は頭にあるのか。
イスラーム圏は東洋か、西洋か。
それは宗教で分けられるのか。人種か。国か。地理か。

結局のところ、西洋と東洋の比較は
自国の属する中華圏文化と経済的・軍事的に優れていた西洋文化との比較でしかない。
東アジア圏が経済的・軍事的に発展した今だからこそ、
狭義での(自民族を必要以上に美化するという意味での)
エスノセントリズムに陥らぬよう気をつけるべきかもしれない。

以上を念頭においたとしても、西洋と東洋比較は面白い。
東洋の自然と”調和”する思想。
自然を愛し、自然に学び、自然に感謝する。
今まで人間は西洋の文化に習い、自然を抑圧してきた。
そのツケを将来払わされることになるかもしれない。
しかし、私達は責任を”西洋”に押し付けてはいけない。
結局のところ、文化とは国でも、人種でも、宗教でもなく、
1人1人の人間に宿るものではないだろうから。
だから、単なる西洋批判はなんの意味も持たない。

文明の進化をもたらし、これからも
もたらし続けるであろう西洋文化と、自分の根底にある
東洋文化の対話をどう行い、結論を導くのか。
対話は自分の中にも確かにある。


【日本絵画と西洋絵画】

特に詳しくはないのだが、西洋絵画は好きである。
今回ほぼ初めて日本絵画を真正面から見て、意外なほど感動した。
その色の細やかさ、鳥達の今にも動き出しそうな様子。
シンプルなその絵に込められた全てが語りかけてきた。

西洋絵画で好きなのは、印象派とシュルレアリスムである。
しかし上村さんは上記の二つの流派が持っていたある意味での”現実性”は
日本画では“当たり前”のものであるらしい。
(ちなみに勘違いされやすいのだが、シュルレアリスム=「超現実」は現実を超えた夢想の意ではなく、
”人の目に見えている現実よりもより現実”を描き出す流派)
確かに古来から日本絵画が持っていた
”再現性のなさ””イメージの重視”は印象派、シュルレアリスムが志向したものでもあるだろう。 

日本絵画が将来、より世界に知れ渡る時はくるだろうか。
おそらく来ないだろうと思う。
そこには”目に見える”普遍的な美はない。
再現性、イメージが私達に訴えるのは、
”日本”という文化に生き続けている我々の文脈においてのものだ。
だからこそ、私達はこの”日本”絵画をもっと理解し、
保存しなくてはならない気がした。

卒論に関して

卒論に関して


留学する可能性があるとはいえ、最近少し卒論について考えだしている。
(留学した場合、卒論が受理されないかもしれないのだけれど)

卒論は自身が4年間で勉強してきたことの最終的なアウトプットであるから、一定以上の質を追求していきたい。

そうした場合、何をテーマにどのような論文を書こうか。

まず思うのは、ミクロ計量を基本とした開発経済論文を書くということ、そして学際的なアプローチで書きたいということである。

学際的なアプローチとは必ずしも経済学に準拠した論文である必要はないということである。

政治学、社会学、法学、心理学等の知見を活かした論文を仕上げる。

そういった複数の視点からのアプローチという観点からは、「課題解決型」の卒論というものが自分には望ましいと思う。

ある問題を設定し、それがいかなる問題構造をしているか考え、フローチャートにまとめる。その後、各種因果関係を経済学的なアプローチで求める。

そして現実の解決策の有効性に関して、評価した上で、改善の方向性を示す。

このようなアプローチにすることで社会で実際に問題に取り組んでいる方々の「生の声」を聞く大義を得られる点でも良いと思う。

頭で考え、足を動かす、それを循環的に行っていく。そんな卒論が書ければ面白い。

2015年5月23日土曜日

『危機の二十年 理想と現実』(E・H・カー)

『危機の二十年 理想と現実』(E・H・カー)

ブリーフィング

国際政治学の起源とも言われる本書。第一次世界大戦前、中、後の20年(1919~1939年)において世界はどう対応したのか、そして当時の政治学者、政治家はどのように考えたのかを分析する。

目次
第一部 国際政治学

まず始めに政治学の基本的な枠組みとして、”目的が先行し、事実を跡づけするような”ユートピアニズム”と、”事実を重んじて厳密な批判的・分析的思考を導く”リアリズムの導入を行う。

ユートピア:「何が存在すべきかの考察に深入りして、何が存在したか何が存在するかを無視する傾向」「自由意志」「政治理論は、政治の現実が従うべき規範」「急進主義者」


リアリティ:「何が存在したか何が存在するかということから、何が存在すべきかを導きだす傾向」「決定論」「政治理論は政治的現実の一つの体系」「保守主義者」

第二部 国際的危機

全会一致を標榜した国際連盟を始めとして、当時のユートピアニストは「世界の純真な民衆」が適切な思考を働かせれば、おのずと正しい決定が下せると信じていた。その国際政治におけるユートピアニスト達の前提として常に存在していたのは「個別の利益が自ずと全体の利益となる」あるいは「他者を害して利益を得る人など誰もいない」ということである。しかし、危機の20年において、様々な利益衝突が表面化した。もはやユートピアニズムの全構造は崩壊を見たのである。
一方、リアリズムはマキャベリにその起源を持つ。その起源とは原因と結果の連鎖としての歴史に対する知的努力による分析、理論が現実を作るのではなく、現実が理論を作るということ、そして政治が倫理の機能ではなく、倫理が政治の機能であるということである。この観点から、国際主義や利益調和説は強く批判された。しかし、リアリズムが一定の限界を持っているのもまた事実である。(完全な)リアリズムは有限の目標、情緒的な訴え、道義的判断の権威、行動の根拠を無視することになってしまう。リアリズムから見れば、世界の流れは決定しており、そこに介入する人間の意思は排除されてしまうのである。

第三部 政治、権力、そして道義

以上の対比を踏まえた上で、政治の本質とは何であろうか。政治には道義と権力両方の妥協の上に成り立っており、どちらか一方のみが存在するわけではない。政治における権力は経済力、軍事力、意見を支配する力によって構成される。
国際的道義は存在するが、それは「イギリス」や「フランス」といった集団的人格によるものである。国際的道義の難しさは、国家の上には何ものも存在しないこと、つまり道義的義務の絶対性は担保されないことである。


第四部 法と変革

国際法は果たして何を基盤にし、それは機能しうるのか。国際法における常設国際司法裁判所は拘束性を持たないし、そもそも条約そのものも拘束性はない。そういった意味で法は本来持つべき定着性、規則性、継続性を必ずしも備えているようには思えない。
では平和的変革はどのようになされるのか。ユートピアニストはそれを世界立法府や世界法廷によって実現しようとする。またリアリストは平和的変革=変転する権力関係への適応と見るのである。


結論

「危機の二十年」を通して、純粋なユートピアニズムは崩壊した。新たな国際秩序は新たな権力構造によって構築されるだろう。しかし、道義の要素を軽視するのは偽りのリアリズムである。むき出しに権力に人々は反抗するという単純な理由より、国際秩序は少なからず道義が関与してくる。「結局のところ、国際融和へと前進する望みの最大のものは経済再建の道にあると思われる」。よって一種、ユートピアニズム的であるやもしれないが、道義に基づて(を回復して)、国際政治に経済的利益を犠牲に、、社会的目的を促進することを期待する。






感想・考察

国際的な権力はなにから生じるのか。本書ではそれを経済力・軍事力・意見を支配する力としている。確かに現在、世界で最も権力を持っているアメリカは3つ全てを持っている。また中国は経済的なプレゼンスの拡大と共に、国際的な発言力を増している。もし、これに+αするとするならば、俗にいう”インテリジェンス”を足したい。フーコーの監獄装置のように一方的に相手のことを知っていることは圧倒的な強みなのである。
 では、企業間の権力差、あるいは交渉力差はどのようなものから生まれてくるのか。例えば、大企業と中小企業では一般的に大企業の方が交渉力が強い。それはひとえに”オプションの広さ”に起因すると考えられる。つまり大企業側から見れば、ある一つの部品を作れる工場は無数にある。しかし中小企業にとって見れば、(ブランドの弱さ・情報収集にかかるコストの高さなどにより)交渉の機会は限られており、これがある程度妥協しなければならない理由となる。一方、中小企業が唯一無二の技術を持っていた場合、立場は容易に変わりうる。





2015年5月17日日曜日

『ヨーロッパ思想入門』(岩田靖夫)

『ヨーロッパ思想入門』(岩田靖夫)

ブリーフィング
岩波ジュニア文庫ではあるものの、ヨーロッパ思想の根源を知れる良書。
構成として、前半部においてヨーロッパ思想の根源をなすヘレニズムおよびヘブライズムに関する著述が続き、後半部では様々なテーマのもと、各思想家の思想をまとめている。

以下、前半部のヘレニズムとヘブライズムに関してまとめる。

ヘレニズム:
ヘレニズムはアテネを中心としたギリシア半島で栄えた思想である。
その中心概念は”本質へのまなざし”にあるのではないか、と考えられる。
物事の本質、我々人間の本質は果たして何であるか、それが彼らの根本的な問いであった。
これは西洋における数学や哲学の発達に寄与していると考えられる。
そして、その他現在の大きな影響を与えているのは法の下での自由と平等である。同時代のほとんど全ての共同体が国王を中心にした、圧政の下にあったことを考えれば、この国の異様さが際立つと言えるだろう。

そんな彼らにとって、最高の人生とは何か。それは自己の全能力を発揮することにある。

また彼らにとっての「神」は人間の延長、人間の理想=不死としての存在である。従って、神は不倫もするし、恋愛もある。そこには超越性がないのである。


ヘブライズム:
ヘブライズムとは旧約聖書、ユダヤに端を発する。
彼らの思想の根本にあるのは、神、超越的な神、無から有を作り出す神。愛の神である。
そして、その神の下、人間は完全に平等である。神の絶対性の下では、現世の地位による差異などないに等しい。これが世界宗教として、多くの者を惹き付けてやまない理由であろう。来世の仮場としての現世において、人は一人一人が比較を許さない絶対者であり、農民も商人も王も等しいのである。





2015年5月14日木曜日

『クリエイティブ・マインドセット』(デイヴィッド・ケリー) &『センスは知識から始まる』(水野学)

『クリエイティブ・マインドセット』(デイヴィッド・ケリー)

ブリーフィング

クリエイティビティはこの世に存在する人々全てが持っているもので、
「創造性に対する自信」欠けているだけなのだ。

この自信もIDEOの「デザイン思考」に乗っ取れば、誰もが自分のクリエイティビティを体感し、
獲得できるものであり、本書ではその方法が語られている。

まず「恐怖を克服する」こと、恐怖を克服して、自分が前に踏み出す勇気がついたなら次は、
創造性の火花を散らす。そして、思いついたアイデアをすぐに実行しよう。
しかし、自分だけのクリエイティビティは限界があるので、他の人の意見も積極的に活用しよう。

その上で実際に自分のクリエイティビティを上げるための具体的なツールを紹介している。


『センスは知識から始まる』(水野学)

ブリーフィング


「センスの良さ」とは数値かできない事象の善し悪しを判断し、最適化する能力

センスを良くするためには、まず「普通」を知ること。普通を知ることで、良いものと悪いものを判断する基準を得る。
普通を知るためには「知識」が必要である。その分野の常識を知らぬまま、「◯◯」はセンスの領域だから、、、というのは言い訳である。
しかし、この際の知識は常に客観的でなければならない。

知識を得るためには「王道から解いていき」「今流行しているものを知り」「その中に一定のルールや共通項がないかを探っていく」プロセスが必要。
「感受性」+「知識」=「知的好奇心」

非日常=「旅」を通して、他の人の考え方を学ぶということ


イノベーション=知識×知識であり、「え!」ではなく「へぇ〜」

「他人と同じことをしたくない」症候群の背後にある思想


「他人と同じことをしたくない」症候群の背後にある思想

思うに資本主義の中にある現代、二つの価値観が相克している。
”稀少性”に全ての価値を見出す「経済学的思想」と、
”個の不可侵性”を重視する「宗教的(キリスト教的)思想」である。

現代、価値があると考えられているものはなにか。
それは金であり、レアメタルであり、キャビアである。
これらは何を持って、価値を持つのか。
それは一重に稀少性に過ぎない。
少ないから、価値が高いのである。
ある人はそこに有用性の存在を主張するかもしれない。
確かに金の特性、レアメタルの特性はすばらしいが、
もし金が多量に存在し、鉄が少量しか存在しなかったら、どうなるだろう。
鉄の価格が上がるのではないだろうか。
そもそもキャビアを取り上げてみれば、米のように毎日食べたいものでもない。
でも「少ない」から、米よりも圧倒的に値段が高いのである。

それに対して、宗教が主張するのは「個の不可侵性」、ある意味で
個々人の存在が等しく尊いということである。
大富豪も平民も乞食も平等に一つの命として等価なのである。
現実問題として、それが本当に現実に反映されているかは分からない。
しかし、もはや宗教が失われた日本、そこに住む私には
この考えはひどく新鮮であり、何百年にもわたって人々の信仰を
受けてきただけのことはあると感じられるのである。

このように考えるとき、「他人と同じことをしたくない」症候群の背後には
一部(全てだとは決して断言しないが)経済的な思想があるのではないかと考えてしまう。

「他人と同じことをしたくない」理由はなんだろう。
結果が見えているから?
皆に「他とは違う」人間に思われたいから?
それとも、自分は皆とは違う人間だと思いたいから?
そして皆と違う自分の人生にとりわけ大きな価値付けをしたいから?
私が思う理由はこれくらいである。

だが、上に挙げた全ての理由は全て稀少性に価値を置くが故の発想である。
そして残念なのは、稀少性が常に相対的なものであるということである。

かつてはマイノリティであったフリーターは増え、現在ではフリーターをしながら夢を
追うというルートは稀少性を失っている。
結局「他人と同じことをしたくない」という発想は他人から逃れることを必然的に拒むのである。

大学に行き、大手企業に入り、子供を育て、退職し、老後を楽しむ。

それは想像できることかもしれない。
皆と同じかもしれない。

しかし、「他人と同じことをしたくない」という人間は
「他人と同じことをしていない」人間である。
故に「大学に行き、大手企業に入り、子供を育て、退職し、老後を楽しむ」
ことを「経験」しておらず、
「大学に行き、大手企業に入り、子供を育て、退職し、老後を楽しむ」
を知った気になっているだけの人間なのだ。
大手企業の苦しさもやりがいも、子供を育てる難しさも楽しさも、
老後のわびしさと落ち着きを全て「知った気」になって、
我が者顔で生きている存在に過ぎないのだ。

だから、「他人と同じことをしたくない」という発想は
マイノリティルートを選ぶ理由には本来なりえない。

やりたいことがあるから、マイノリティルートを選ぶのである。

一度、道を踏み外すと受け入れられづらい日本において、
マイノリティルートを選ぶことは大きなリスクを伴う。

ハイリスクには、常にハイリターンを求めなければバカである。

そのリターンが「他と違う自分」への優越感だけでは、いささか
物足りないのではないだろうか。

自分が本当に力を入れて、取り組みたい、努力してみたいことがマイノリティルートにしかなく
、たとえ失敗しても笑って、また努力できる人間にこそ、マイノリティルートはふさわしい。

人生やキャリアにおいて「マイノリティ」であること、それ自体に大きな意味はないのではないだろうか。

2015年5月13日水曜日

番外編:読みたい本

番外編:読みたい本

大学時代に読んでおきたい本を以下、リストアップする。
読破あるいは、追加に関しては順次更新していく。

留学前
『ペスト』(カミュ)
『想像の共同体』
『文明の衝突』
『歴史の終わり』

大学生活

『オリエンタリズム』(イブン・サイード)
『道徳感情論』(アダム・スミス)
『君主論』(マキャベリ)
『文明の衝突』(ハンチントン)
『危機の20年』(E・H・カー)
理科系の作文技術』(木下是雄)
『歴史の終わり』(フランシス・フクヤマ)
『日本人の英語』(マーク・ピーターセン)
『失敗の本質ー日本軍の組織論的研究』(戸部良一、寺山義也)
『隷属への道』(ハイエク)
『詩学』(アリストテレス)
『ニコマコス倫理学』(アリストテレス)
『世論』(ウォルター・リップマン)
王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために』(アガンベン)

2015年5月11日月曜日

『リーマンショック コンフィデンシャル(上)』(加賀山卓朗)


『リーマンショック コンフィデンシャル(上)』(加賀山卓朗)

感想

本書は2009年のリーマンショックの前後に果たして現場では何が起きていたのかを
まとめた経済小説。新聞記事、書籍、関係者へのヒアリングを通して得た膨大な資料を元にストーリーを構築しており、非常にリアリスティックな良書と言えるだろう。

ブリーフィングには適さないため、気になった点などを感想を交えながら記述していく。

・アメリカの連邦政府
考えてみると、経済政策におけるアメリカ連邦政府のあり方をほとんど知らない。
政治問題を考えるとき、A国の何省が力を持っているのか、そもそも通貨発行権はどこが持っているのかなどは非常に重要である。それによって政治的、戦略的なアプローチは大きく異なる。


・アメリカの世論の特殊性
アメリカは”社会主義的”という言葉を最も嫌う世論の特性を持っているように感じられた。今回、そのように揶揄されたのはフレディやファニーなどのGSE破綻に対して、連邦政府が資金注入をしたことに関してだった。「血税を一部の特権階級のために使用した」ということである。一面として、それは正しいとは言え、

・Too Big To Failの罪
現在、各金融機関は他会社の証券保持などを通して、複雑に結びついており、一行の破綻が莫大なシステミック・リスク(ある所で発生した決済不能が次々と広がって世の中に混乱を及ぼす可能性)を持っている。すると、国としては破綻時に保護せざるを得ない。しかし、ここでモラルハザードが発生する。つまり、銀行は”いざとなれば守ってもらえる”ということを担保に自分で対応できる以上のリスクを取る行動に出がちになるのだ。これに対してはすでに「バーゼルⅢ(要調べ)」や「リビングウィル(生前遺言)」等の対策は打たれているものの今後の金融規制に注目しなければならないように感じられた(今更感)

・上にいけば、行くほど”人”
人間の意思決定は感情に大きく作用されるが、組織、それも大企業のような社会的責任と落ち着きを持った組織であれば合理的な意思決定が行えるという言説を法人営業の書で見かけたことがある。しかし、これは一部正しい、一方で真理ではないように思う。組織はシステムで動くが、システムを作るのは人であり、会社のトップも人である。つまり、意思決定は必ずしも、合理的に行われず、感情的になり得るのである。今回、当時のリーマンCEOのファルドの態度に不遜を感じ、多くのCEO達が買収を離れた。しかし、根性強く交渉していれば、ひょっとすると自社に利益になる買収が行えていたかもしれない。会社は結局のところ、(良くも悪くも)人の集まりでしかない。



『人間不平等起源論』(ルソー)


『人間不平等起源論』(ルソー)

授業で書いたレポートが読書感想文的なものだったので、転載。今から見るとクオリティが低いw


ブリーフィング

 まずルソーは本書『人間不平等起源論』をジュネーブへの献辞をもって始める。この献辞は一見、形式上ジュネーブ政府・国民を誉め称えているように見えるが、これは本書や『社会契約論』で展開されるルソーの理論上でなされた当時の両者が孕む問題の痛烈な批判であった。
 ルソーは本書の目的を人間が抱える2種類の不平等、すなわち自然的不平等(=自然が定めた健康状態や体力、精神の質などの差)と社会的不平等(=現状の貧富の格差など)が生じた理由、その起源を明らかにすることだと明示する。それは言葉を変えて「暴力の代わりに権利が登場し、自然が法に服するようになった瞬間」、あるいはなぜ「強者が弱者に奉仕することを決意できたのか」を解明するためであると述べられる。
 まずルソーの目的は自然が生み出す人間(=自然状態にある人間)と社会が生み出す人間の境界である故に、人間の起源から考察を始めなくてはならないとする。その考察にあたり、ルソーは解剖学的知識でも、超自然的(聖書上の)知識でもなく、現実の人間から「紙からうけとることができたすべての超自然的な賜物と、長い期間をかけて進歩することで獲得できたすべての人為的能力」を除くという想像的技法を用いたことがここで明示される。そこで原初の人間を固有の本能が欠け、欠けているが故に全ての動物の本能を自らのものとして獲得できる存在であると規定する。具体的に、自然人は「特に言葉を話さず、家を持たず、互いに闘うこともなく、他人と交際することもなく、同胞を必要としないし、同胞に危害を加えようと臨まない。おそらく同胞の誰一人として見分けることもできない。こうした野生人は情念の虜になることもほとんどなく、自分だけで満ち足りており、こうした状態にふさわしい感情と知識しかもっていない。」。以上のような自然人の性質の中で、重要な概念は二つある。それは「自己保存」と「憐れみの情(ピティエ)」(=「自己の同胞が苦しんでいるのを目にすることに、生まれつきの嫌悪を感じる」)である。ホップズは自然人が持っている「自己保存」の側面のみを捉えていたため、「万人の万人による闘争」を生むとしたが、ルソーは自然人の中において「自己保存」と同時に「憐れみの情」が「ぼんやりとであるが強く働く」ために、自然人は相手のものを奪うというよりも自分のものを守ることを主な行動とするのである。そして自然人は必要以上の理性を持たないため、誰一人としてこの感情の優しい声に逆らおうとする人がいないということである。故に自然人はあくまで孤独なのだ。つまりホップズの想定する「万民の万民による闘争」の背景にある利己愛は理性の力によって生み出されたもの、社会化された人間の一側面を描いたに過ぎないとする。
次に第二部として、自然状態にあった人間がどのように、なぜ変容し、社会を構築し、不平等を積み重ねていったかを論じている。人間は人口増加に伴って、散り散りになって、様々な環境変化を味わった。その都度、人間は生活様式の変更を迫られ、火の起こし方などの知識を取得していった。そして知識が蓄積される中で、人間はあらゆる動物に対して自分が優位にたっていることに気がつく。そこに自尊心の萌芽が見られるのである。また人間は他の人間を観察することができた。その中で人間は自分の利益と安全のために従うべき最善の規則を見いだす。人間は「自分の安楽への願いが人間が行動する唯一の動機であることを見いだし、他人に援助を期待できる状況と競争状態を区別」できるようになった。そうして人間は知らず知らずの内に相互の約束とこうした約束を守ることの利点についての“曖昧な”考え方を身につけていったのである。そして狩りなどのための原初的な仲間付き合いにおいては分節化されない叫び声、身振りが普遍的な言語を構成していた。その後、進歩するについて彼らは家族を形成し、定住し始める。定住は利便性や効率性から、次第に集まって行われ、その地域の人間は同じ生き方と食べ物のために、習慣や特性が同じになっていった。また、人間は様々な事物を眺めて、それらを比べることに慣れ始め、知らぬうちに“美しさ”と“価値”という観念が生まれるようになり、これが好き嫌いの感情を芽生えさせるのである。いまや群れをなした人間はやがて、誰もが他人を眺め、誰もが他人に眺められたいと思うようになる。こうして尊敬と軽蔑、妬みや羨望、恥辱の概念が形成されていった。この尊敬の中に人間の不平等の萌芽はあったのである。この人間の発達時期は原初的な鈍感の状態と狂おしい利己愛が働く状態のちょうど中間にあり、最も幸福で、もっとも永続的ないわば「世界のまさに青年期」であったといえる。しかし、我々はその幸福な状態にとどまることは出来なかった。農業や鉄の利用はその理由の一端である。農業により、土地の耕作が始まると、土地の分配が避けられず、労働を加えた人は土地を“私有財産”とすることができるようになった。そして私有財産としての土地が拡張していくと、いずれ他人の土地を侵害せずに自分の土地を拡張できなくなる。ここにおいて、最初に運や怠惰によって土地を手に入れられなかった人々は土地という財産を富めるものから貰うか、奪うかしかなくなり、そこに支配と隷属、暴力と略奪が生まれたのである。こうして生まれた略奪は富めるものを常に戦争状態に誘った。しばらく争った後、彼らは永続的な戦争状態が自分にとっていかに不利なものであるか痛感した。そう感じた富める者たちは“自らの利害を守るために”、演説により戦争がいかに人間集団一般に対して悪い存在であるかを問い、団結を訴えた。こうして一部の野心家の利益のために人類全体を労働と隷属と貧困に服させる社会と法が構築されたのである。こうして構築された社会においては人民が自ら選んだ首長と契約を締結する(=社会契約)。契約を締結した当事者は法の遵守が義務づけられ、首長はすべての人民が自らの所有物を安心して享受できるように配慮すること、いかなる場合にも自分の利益よりも公共の利益を優先することを義務づけられる。またここで“契約”という概念の性質上、これらは撤回可能なものであることが強調された。しかしやがて選挙により選ばれていたはずの首長は自分の地位を子孫に世襲させたいと考えるようになり、人民も平穏な生活の中で従順に慣れていたが故に、それを容認した。そして首長は国家を自分の所有物の一つと見なすようになっていったのである。官僚も世襲化され、政治的地位の差が市民間の差異を生み、さらに不平等が深まった。こうして社会のあらゆる場所で対立が起き、首長はそのような状況を利用して、腐敗の限りを尽くすのである。これが不平等の行き着くところ、究極の場所である。“円環”は閉じられ、すべての人が再び平等になる。誰も何も所有せず、臣下は主人の意思の他にいかなる法も持たず、主人は自分の情念の他にいかなる規則ももたない。ここに残されたのは最強者の法のみであり、これは新たな自然状態である。これが現在の不平等を生み出した社会構造であり、我々は自然状態に戻ることはもはやできないのである。

感想、考察

 本授業を受講する中で、“社会契約説”に関して最も強い興味を覚えた。であるから、過去『孤独な散歩者の夢想』を読んだことで多少親近感があったルソーの代表的著作である『社会契約論』を読む予定であった。しかし授業において、インノケンティウス3世の悲惨な人間論を聞くに及んで、社会契約説の議論も含めた社会思想や哲学という学問の根幹にあるのは、各人がそれまでの人生の特殊な環境下で培われてきた様々な“人間観”ではないかと考えた。今まで経済学部生として勉強してきており、思想に関しては全くの無知である私は思想は常に論理的に構成されているものであるという偏見があったため、この考えは非常に新鮮であった。そこで『社会契約論』の背景にある彼の人間観が描かれた『人間不平等起源論』を中心にして読む次第になった。しかし、主題としては社会はどのように構成されているのか、あるいは社会の構成員としての我々が持つべき義務に関してなど、『社会契約論』の中に大きく関わる部分も多いため、適宜参考にしていければと考えている。では以下、本題に移る。

<ルソーの人間観・文化・文明観>
 ルソー(1712-1778)はスイス、ジュネーブの時計職人の息子として生まれた。彼は本書『人間不平等起源論』を著す前に様々な困難に遭遇している。母親は産後に死亡し、その後徒弟に出されたが、仕事が気に入らず逃亡。様々な地を放浪したあげく、ヴェネツィア駐在のモンテギュ氏の秘書になったが、 喧嘩別れ。そして37歳の時、ヴァンセンヌに幽閉されていたディドロに会いにいく途中で啓示体験を受け、その5年後の間に様々な作品を仕上げた。本書『人間不平等起源論』はその際の著作である。ルソー晩年の作品、『孤独な散歩者の夢想』の中で彼はこのように書いている。「人間でなくならないかぎり、かれらはわたしの愛情からのがれることはできなかったのだ。」晩年の彼の姿勢を40歳前後のルソーに当てはめるのは必ずしも正しくない可能性もあるが、それでもなお、私にはこの姿勢が既に『人間不平等起源論』の時期から、いやむしろ彼が根本的に感じていた、“人間への絶対的な愛”、しかし母の不在や家族からの逃亡、様々な喧嘩別れの中で味わった、親しい人間の“裏切り”の中で育まれた人間一般に対する“絶望感”。それがルソーを決定的に特徴づけているように思える。『人間不平等起源論』内でのルソーの人間観は、自然人が生来持っていたとする「憐れみの愛(ピティエ)」にあると考える。人間を汚く、どうしようもないものだと思っているのなら、「憐れみの愛」など構想しなかったであろう。ホッブズの「万人の万人による闘争」の背景にはただ「自己保存」だけがあった。これは私の感覚にもひどく合致している。人間は生物である以上、生存をその第一目標としており、それは家族と触れ合うなどの中で“育まれた”ものであると考えることもできる。しかし、ルソーはそれを本質として備わったものだと見なした。そして文化・文明全体を、悪徳を形成した諸悪源であると見なすのである。この文明に対する態度は産業革命(18世紀半ば〜19世紀)前にはひどく異端な、珍しいものに思える。
 私はルソーの人間観には賛同を示したい一方で、文化・文明論には一定の違和感を覚える。そもそも私が文化と文明をどう考えているか。“人間に役立つものとしての文明”と“人間の信用の中で生まれる文化”と捉えている。文明は明らかに目に見えるが、文化は目に見えない。つまるところ、文化とは自己理解だと私は考えている。それはきっと身体的な、物理的自己ではなく、社会として、まとまりとしての自己理解である。その意味では絵画、音楽、文化は一種の自己表現である。人はあらゆる方法、メディアを使って自分を表現する。だから、おそらく文化は進化しない。深化するものなのだ。文明は進化し、たとえそれが人間を自然人から遠ざけていったとしても、文化による自己理解で常に“人間らしさ=自然人らしさ”を失わない。それが文化と文明の補完的な関係性なのではないかと考えるからである。また開発経済学を専攻する身として、文明は明らかに人それ自体を助けてきた点を強調しておかずにはいられない。自然人には病気はなく、仮に文明がそれを生み出したとしても、文明はそれをさらに乗り越えるだろう。乗り越えることでさらなる問題が起こるかもしれないが、それすら人間は乗り越える。そのプロセスを私自身はポジティブに捉えたいと思う訳である。

<人間の不平等と社会システム>
 『人間不平等起源論』の中での主張は、人間の不平等は本来的なものではなく、社会が生み出したものであるということである。この議論は私にとっては納得たるものであった。しかし、例えばアメリカではそう思われてはいない。ロールズの議論では第一原理として平等な自由の原理、第二原理として格差原理と機会均等原理が挙げられているが、特にアメリカでは(そして日本でもほぼ同様に)機会均等原理の浸透を国民が広く信じている。そこでは不平等に苛まれる人たちは、教育や住居、飲食等において均等な機会を与えられながら、それを有効活用できなかった、あるいは努力できなかった“負けた人”というレッテルを張られるのである。しかし、ルソーはその機会均等という概念そのものを否定的に捉えている。つまり機会均等は前提として、その後の格差を是認していると捉えるのである。ルソーは本書の中で文明の進化が示す先に関して、“円環は閉じられ”と表現している。つまり自然状態から進みだしたが最後文明の進歩は加速度的に進み続け、社会が構築され、腐敗し、平等に戻る。そして、そこからは再度クーデターにより、社会が再構築され、さらに腐敗し、という循環を辿り続けるという社会観がそこにはある。すなわち社会の孕む根本的な不平等は全く改善されず、全ての権利が剥奪され、一人の人間に集中するというネガティブな意味で平等になるだけなのである。現代から見るとき、これに関しては一定の疑問を抱かざるを得ない。そもそも“不平等”であるとは、どういう面での不平等か。具体的には政治的、経済的、家庭的、人間関係的、(身体、精神込みの)能力的、外見的など様々ある。そしてこれらの不平等は彼の生きていた18世紀よりも改善されているように思える。私はルソーの言っていたことが間違っている、と言う安い結論に持ち込みたいわけではないし、そもそも本書は未来予測の本ではない。
 ルソーの理論を21世紀に当てはめるのであれば、二つの考え方がある。まず第一に知らぬ間に権力が一部に集まっており、かりそめの平等(ルソーのいうところの“新たな自然状態”)にいる可能性である。そして次に、ルソーの理論はルソー以前の社会に対しては当てはまっていた、整合性を持っていたが、現代社会はその円環からの抜け道を見つけ、真の平等への道を歩み続けたと考えるかどちらかである。私は後者であると信じている。なぜそう考えるか。私は本書を読んでいる中で、ルソーがある思考の“制約”の中で、議論展開をしているように考えるからである。その制約は“ヨーロッパ”という制約である。彼は人生を通して、様々な国を来訪したが、もれなくヨーロッパ内の国であった。ヨーロッパは一種の同質性を持ち、いずれもある程度同じ速度で成長・進化していった。しかし、ヨーロッパという閉じられた地域ではなく、世界を眺めるとき、私達はルソーのいう“円環”の様々な段階にいる諸国家を眺められるようになった。ヨーロッパは発展途上国で起きる様々な紛争から、自分たちがかつて起こした戦渦の恐ろしさを再度見返すことができる。発展途上国も発展を既に遂げている先進国の失敗を見ることができる。我々が世界的な視点に立つとき、我々はそこから学ぶことができるようになった。その結果、私達は恐ろしい円環の存在に気づき、学び、そこから抜け出るすべを模索しだしたのではないだろうか。イスラーム国のニュースが流れるたび、我々は強い反発を覚え、自分の世界を見返す。グローバリゼーションが一部として、円環の再構築に歯止めをかけていると私は考えた。

<社会契約とは何か>
 結局“社会契約”とはどのようなもので、なぜそのような社会思想が求められたのか。考えたところ、見方は4つあると思う。第一に国家権力の“正当性”を擁護するものとしての見方である。実にホッブズの思想は国家への反駁可能性の否定という点で特徴付けられるが故に、その側面が強かった。しかし少なくともルソーのように反駁可能性を認めていたとしても、現国家とは契約を結んでおり、人々の自由を犯さない限りにおいて、一定の正当性を持つと捉えることも可能である。第二にあらゆる国家体制内で守られるべきルールを体系化したもの、という見方もあると考える。このルールは大衆に向けたものだけではなく、統治者が政治を行う上で侵してはいけない領域を示すものとして存在する。第3に人間が社会を生み出したその根本原因を考える思想とも捉えられる。先述のルソーの人間観のように、自然法下の人間とはいったいどのような存在であって、人間はなぜ群れを作り、言語を作り、社会を作り、法を作ったのか、その起源を問うということである。そして最後に各抽象概念としての正義や自由、平等間のプライオリティを見極めるためのものである。社会がどのように形成されてきたかを考察することで、その“契約”の中に盛り込まれた“条項の順番”を知ることが出来るのではないか、ということである。この辺りはルソー、カント、ロールズの間にある結節点なのではないかと考えた。
 ではルソーの『社会契約論』の主題はなんだったのか。ルソーは『社会契約論』の第一編において以下にように記載している、「私は、人間をあるがままの姿でとらえ、法律をありうる姿でとらえた場合、社会秩序のなかに、正統で各日な統治上のなんらかの規則があるのかどうかを研究したいと思う」。つまりルソーは私でいうところの第2の見方で書いたと考えて良さそうである。しかし、ルソーや彼と交流のあった啓蒙思想家としてのディドロはなぜ社会のルールなどを考え始めたのであろうか。少なくともルソーは1728年、16歳の頃に地元ジュネーブのカルヴァン派のキリスト教からカトリックに改宗している。彼らの行為はカトリックの教えに反抗するものではないか。(実際、社会契約論は禁書扱いにされている)そこには18世紀の世相があると考える。ヨーロッパは永らく絶対王政を正統化するボシュエの“王権神授説”が唱えられてきた。他方、『戦争と平和の法』などで有名なグロティウスによる人間が生まれながらにして持っている権利を保証する法としての自然法は王権神授説に対する思想として存在してきた。17世紀の絶対王制下のヨーロッパ各国は人民に対して、大きな制約と不平等を強いてきた。例えばフランスでは“ナントの王令”が破棄され、プロテスタントを迫害する姿勢を示した。しかし18世紀に入り、ルイ14世も1715年に亡くなり、ここからフランス含め、各ヨーロッパ王制は次第に弱体化を辿ることになる。すると交易が発展する中で力を得たブルジョワジーが官職売買により、政治に介入してくる。そこで権力や地位よりも、金が力を持つなど、様々それまで当たり前であったものが否定されてくるのである。そこにおいて啓蒙思想家や社会契約説のロックやルソーは国家の起源、ルールを問い直し、現国家体制が抱える矛盾を問いつめるようになったと考えて良いだろう。
 ここでルソーの社会契約説を現代の文脈で読み返すのであれば、どうなるだろうか。私は第4の意味、すなわち諸概念のプライオリティを計る上でルソーの考え、社会の起源論は深い価値を帯びるだろうと考えている。本レポート執筆時、イスラーム国への人質問題が世間をにぎわしている。またサウジアラビアでの反イスラーム的なウェブサイト作成者への非人道的なむち打ちの刑執行、またそれに対するアメリカの自由論の押しつけと度重なる統治失敗の中で、世界の一部は“価値の相対化”というマジックワードに踊らされているように思う。今まで虐げられてきた価値を表に出せる“表現の自由”は歓迎される一方で、何をしても良い訳ではない。イスラーム国の非人道的行為は“イスラームの諸原理に従うから”といって(実際にはイスラームには西洋的な民主主義がなじむ素養はあると私は考えるのだが)許容されるものではないと考えるのである。ここにおいて、世界中どこでも普遍的な社会形成の思想、そこから導きだされる普遍的な価値観のプライオリティ、自然権は再度見直されるに足るものであると考えるのである。
<現代における一般意思の可能性>
 ルソーの“社会契約論”を特徴付けるのは、一般意志と特殊意志の概念導入につきるように思われる。ルソーは一般意思に関して以下のように述べている。「意志は一般的であるか、そうでないか、すなわち、それは人民全体の意志であるか、人民の一部の意志にすぎないかのどちらかだからである。前者の場合には、表明された意志は主権の行為であり、法律となる。後者の場合には、それは特殊意志か、行政機関の行為にすぎず、せいぜい命令であるにすぎない。」また一般意志は特殊意志の集合ではないとされる。ルソーの社会契約の概念において、ある国家の中にいる人は3つの存在である。法を作成し、政治に参加する“市民”、自分が作成した法の従う身としての“臣民”、そして政治参加者としての市民の集合体としての“人民”である。ここで一般性はどのように発揮されるか。それはつまり(特殊的意志を持った)臣民と(一般意志の視点に立つ)市民の契約こそがルソーの中の“一般意志”と言えるだろう。
 ここにルソーの一般意志の難しさが潜んでいる。つまり特殊意志を持つ、あるいは特殊意志に縛られざるを得ない我々は「いかにして一般性の視点に立ちうるか」。人間の市民化の条件、方法に関してはルソーの著作内で記述はない。ルソーは『社会契約論』の中で、小国が民主制に向くとするが、いずれにせよ政府権力に何かしらの制限をしない限り、特殊意志からの脱却は難しいのではないか。例えば、現代日本の選挙制度においては候補人は各地域を代表して選ばれた存在であり、彼らは正確には“市民”ではない。また話をグローバルに拡張するのであれば、ある国の国民一般に最適な選択が地球温暖化などの問題で、グローバル市民としては最適でないことは十分考えられる。私達はすでに“日本国民”であるだけではない。中華圏民であり、アジア圏民であり、グローバル人民なのである。この複数視点に立つからこそ、私達は“市民”としてルソーの時代よりも難しい立場に立たされているのである。このグローバルな決定のを下す国際連合は果たして、一般意志を体現した全人類的な意思決定を下せているだろうか。安全保障理事会の存在などを考えると明らかにそうではない。このような現状があるとはいえ、ルソーの議論が古い、あるいは間違っている訳ではない。むしろ我々が今後、選挙での意思決定や様々な普段の行動において、自分はどの視点から意思決定すべきかを考えるべきであるのだ。そのような観点から述べるのであれば、具体的に日本国民が政治に対して意志表明できる場が国会議員の決定だけであるのは物足りない。アジア人としてはどう考えるか、世界民としてはどう考えるかが問われない、あるいは一つの立場から意思決定せざるを得ない状況に押し込まれているのである。この文脈でいうと、昨今のSNSの登場は政治的意思決定を難しくする一方で、新たに政治に参画する方法を提供した点において評価されるべきなのかもしれない。

<まとめ>
 今まで「ルソーの人間観・文明観」、「人間の不平等と社会システム」、「社会契約とは何か」、「現代における一般意思の可能性」の四テーマについて、稚拙ながら考察をしてきた。自分の考察を全て再読した後に気づくのは、私が至る所で現代社会への応用を試みている点である。300年近く前の天才が著した古典はあらゆる組織、時代、空間を横断し得ることが実感できた。経済学部生として近代経済学を勉強していると、様々なスキルが身に付くことを感じるが、これらの古典から感じるのは人間としてのマインド、生き方の変化であった。本授業を通して、古典の重要性を確認できたことは非常に意味があったと感じている。
 また今回、ルソーの原著を読んだが、未だルソーの衝撃的な思想の深さを私はほとんど理解していないとも感じている。またルソーの論述が正しいか、正しくなかったは結論がでない議題であろう。しかし私が最も共感を覚え、心打たれたのはルソーの著作全体に広がる、政治的不平等への、人間社会一般への弛まぬ情熱である。情熱がなければ、議論による対立で『孤独な散歩者の夢想』で描かれるような孤独な晩年を送ることがありえようか。そこにおいて、ルソーの著作は他の作者よりも優れ、人を読む気にさせるのではないかと考える。自分の人生の各所で読むことで彼が感じた情熱を忘れないようにしつつ、彼の思想の深淵に触れられたらと考えている。

『頭のいい大学四年間の生き方』(和田秀樹)

『頭のいい大学四年間の生き方』(和田秀樹)

ブリーフィング

大学四年間は学生と社会人の間のモラトリアムとして語られることが多いが、むしろ積極的に”勉強”し、将来へのステップとしようという主張。

第一章 大学、この知的空間をどう生きるか
激変する世の中で、一人で食べていくために自ら積極的に機会を見つけ、飛び込むべき。

第二章 学生時代はベンチャー精神が勉強の養分になる

第三章 大学の勉強にもテクニックがある

第四章 大学四年間の勉強に幅広くアプローチする

第五章 大学時代の蓄積を長い人生に活かすために
良き師に会うことが重要

感想

正直目新しい内容ではなかった。電車の中だけで読み終わったので、大学入学前に読むには適する。
リクルートの旧・社訓「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」 的なこと。

2015年5月7日木曜日

『野蛮人の読書術』(田村耕一郎)

『野蛮人の読書術』(田村耕一郎)

ブリーフィング
ここ最近巷で良く聞く「リベラルアーツ」とは日本語でいう「教養=文学者などが持つ生活感には欠ける、実用性が低い知識群」ではなく、「自由に生き抜く術」、つまりはこの複雑な世界をリードするためには不可欠な素養である。そしてその自由になるべく学ぶべき「素養」も時代によって当然変化しており、現代では

・先進課題
・先端科学、数学、哲学
・宗教、思想、文化、歴史
・経済、金融
・政治、外交、地域研究
・コミュニケーション能力

の6分野であるとしている。
そして、これらの素養を得るために筆者は「読書」が最も効率的であると説く。
「読書」は実際に会うのは難しいような、その分野の第一人者と「一対一」で対話し、知を学ぶ行為だからである。

そして、続く本編では自分のToDoで忙しい現代人に必要な「効率の良い読書法」をその道のプロの具体例を聞きながら、多数提示している。

第一に感じるのは
やはり、「アウトプット」の重要性だ。

現在、大学のゼミなどで一冊の本に関して議論することはあるが、
自分が今読んだ本に関して、それを読んでいる友達を探しだし、議論をするのは難しい。

よって、今回このブログを始めた訳である。

その他にも

・「目的意識」を持って読むこと。
・ 速読は無理にする必要はないということ
・ 本は最後まで読む必要はない

ということなどにも興味を持った。

語彙

キュレーション・・・情報を収集し、まとめたり、分類したりして、新しい価値を持たせること。
現代では、インターネットの普及による情報の氾濫より、よりキュレーションスキルが問われる。

サンクコスト・・・埋没費用。回収がどうしてもきかないコストのこと。

アイビーリーグ・・・米国東部の名門大学の一群。イェール・ハーバード・プリンストン・コロンビア・ ダートマス・コーネル・ペンシルベニア・ブラウンの8大学

ガバナンス・・・組織や社会に関与するメンバーが、主体的に関与を行う意思決定、合意形成システムのこと。⇔ガバメント

感想

まず以下の二点において価値のある書籍であると考える。

・第三章の「ブックリスト」が「東大EMP」が600万円で提供するプログラムで読まれるもので、
質が高いこと。事実、私も一冊だけ読んだ本があったが、名著であった。

・一般の「読書術」のように、「僕がこれでできて、これが効率的なんだから、こうするべきだ」的な文章ではなく、「多様な読書術」を紹介している点。

後者においては結局の所、正当な読書術などというものは存在せず、読書によって成功している、力をつけている人であってもその方法は様々であり、真に受けすぎないことが重要であると感じた。いままで考えになかった読書法を知れる点で面白い。

しかし、「最高の読書術」を学ぼうと期待している読者は「結局どうすればいいの?」ということになりかねないので、注意が必要。

おすすめしている本のレベルからしても対象は比較的読書経験がある、地力があるひと向けである。

ぜひ、ここにあった本をここ何ヶ月かで読破していきたい。


ではでは

『ザ・プロフェッショナル』(大前 健一)


『ザ・プロフェッショナル』(大前 健一)
※以下、過去の書評故にフォーマットは異なる

この本の主題は題名の示す通り、「(真の)プロフェッショナルとはなにか」そして、真のプロフェッショナルになるためにはどのような「力が必要なのか」である。
 まず著者はプロフェッショナルの定義を「絶対的な顧客主義」に見ている。つまり顧客のニーズ、ウォンツをしっかりと把握し、それを満たすような製品あるいはサービスを提供することが、定義なのである。しかし著者の主張ではなぜ顧客こそ真に重要で、彼らに尽くすことがプロフェッショナルたりうるのかという理由付けである。文中では「お前の給料は顧客が払ってくれている」という記述が出てくるが、なぜ「顧客が払ってくれている」→「顧客を大事にしなくてはならない」という理論が成立しうるのか。顧客は確かに我々の給料となる金を供給してくれる存在であるが、我々は彼らにそれなりの「商品」を提供している。いわば「ギブ&テイク」の関係なのではないか。もし私がここに意義付けをするのであれば、以下のような話しを展開すると思う。
(我々人間の生きる目的の第一として「子孫の繁栄」がある。それは生物として当然に課せられた課題である。(なぜ種を繁栄させるのかはまた考える必要があるように思う)しかし心あるいは精神を持ち合わせ、複雑な社会を作り上げて、互いに寄り添いながら生きている人間はどのようなモチベーション(根本的な)かは知らないが、「他者への配慮」「他者への寄与」をその生存の目的としているように考える。そして会社において、ある個人が影響を与えうる対象はやはり顧客である。そう意味で顧客が大切なのだ。)
しかし、上記のような考え方は他者への配慮を美徳としてではなく、生存の目的までアとしてしまっている時点で一定の批判をうけるように思われる。

次に記述したいのが、著者が「プロフェッショナルに必要な条件としてあげている4つの条件の位置づけである。(先見する力、構想する力、議論する力、矛盾に適応する力)これらの力が実際のビジネスのシチュエーションでどのように活きていく、活かされていくのかについて記述しようと思う。普段ビジネスをやる際に考えられる、フェーズを最大限大まかに分類すると「①未来のヴィジョンを描く→②計画をたてる→③行動する」の3つになると思う先見する力は①に関して、構想する力は②、議論する力は特に②③において、矛盾に適応する力は全てにおいて、活きるものであると思った。