2015年7月28日火曜日

海外インターン 情報まとめ

JICA

http://www.jica.go.jp/recruit/intern/

Food and Agriculture Organization of United Nation

http://www.fao.org/employment/current-vacancies/opportunities-for-students-and-young-graduates/internship-programme/en/

HIDA
http://intern.hidajapan.or.jp

後は、自分が気になったところにに「直接」連絡してみること。
インターン関連会社を経由すると金がかかるが、インターン先の会社にすれば、直接だろうと、会社を経由しようと関係ない。

問題は金がでるかだろうな。。。

2015年7月25日土曜日

自己分析

【7/26】
他にもれず、「自己分析」をしていると、どうも自分の人生を一本の線でまとめあげようとしてしまう。

しかし、人間はもっと揺れ動き、不確実なものではないだろうか。
小学生の自分の「性格」がきれいに「今」につながることなど本当にあるのだろうか。


もし、そんなものがあるのであれば、自分がやりたいことは

・新しいこと=オモシロいこと=強い意外性があること

ではないだろうか。

お笑いはここ10年ぶれないまま、僕の趣味でありつづけたけれど、
お笑いへの興味と「イノベーション」への興味はほとんど一緒だ。

いつだって、誰もが思いつかないようなオモシロいことをしてみたい。

だから、「海外」が好きで、「途上国」が好きなのかもしれない。

そこは全く想像できない環境で、あまりにかけ離れているから。

あと、僕は少なからず、人間がすきだと思う。

というか、単純にオモシロいと思うのだ。

悪をなすも人間で、善をなすも人間で、しかもそれが同一の身体の中にごちゃごちゃに混ぜ込まれていたりする。そのカオスが、混沌が、人間のオモシロい点だと思う。

【7/28】

今のところ、①開発領域②新規性③民間④安定性
くらいが軸になっていると思う。

②新規性は定義が難しい。
どこの会社であっても、新規ビジネスはあるからである。
例えば商社の金属ビジネスで銅鉱山に更なる投資をするのも新規ビジネスであるし、銀行で(今までその機能を持っていなかった銀行が)リテール部門を持つのも新規性があると言える。
つまるところ、私が求める新規性とは「会社にとっての新規性」ではなく、「社会にとっての新規性」であろう。

④安定性はどの階層での安定性かを適確に考えるべきである。
会社レベルの話をすれば、銀行・商社が最も安定性を持っていると言っていいだろう。
しかし、こと個人に焦点を絞れば、銀行マン、商社マンが安定性=柔軟性=普遍的なスキルを持っているかは懐疑的とも言える。



2015年7月16日木曜日

国会議事堂前のデモを見て思うこと

集団的自衛権に関する法案が衆院本会議を果たした本日、国会議事堂前で行われているデモを見に行った。そこで思ったことを適当に書き連ねる。

・実際に訪れて気づくのは、(19時前後という時間もあってか)老人7割、若者2割、その他1割くらいの人口構成であるということである。老人が選んだ安倍政権を老人が拒絶するという構造がなんともオモシロい。(老人というくくりが雑すぎるのは承知の上で発言している)

・「強行採決徹底糾弾!」「安倍政権は今すぐ退陣!退陣!退陣!」などのシュプレヒコールがなされていた。果たしてデモという行為の正当性はどこにあるのだろうか。
曲がりなりにも民主的なプロセスの中で、選出された国会に意義を申し付けるというのは正しいあり方なのだろうか。
おそらく、その正当性は2点から導きだすことができると考えられる。
まず一点目は衆院であれば4年という任期の中で、意見を変えるという可能性である。国会議員は民意の奴隷である必要が必ずしもあるわけではないが、ある程度、民意を反映する必要がある。
そして、選挙時に嘘をつく可能性である。今回であれば、9条はいじりませんと選挙公約を出しながら、就任したとたんに態度を変えるような場合である。

・これほど国家というものを強く感じることは少ない。思い返すのはヨーロッパを廻った際、プラハでどこかの革命で死亡した若者への追悼のろうそくがともされていた光景である。あのときは、少し離れたところで国家と国民が対立し、死亡者が出ていたのだ。

・先ほどのシュプレヒコールを叫ぶ人々に囲まれて、動悸が高まるのを感じた。また引き返す際には多少のプレッシャーを感じた。あの場はまさしく興奮に包まれていた。叫んでいた人たちは自分がなぜ反対していたとか、どこに疑問を抱いているかとか全てとんでしまっているだろう。あれはまさしく熱狂であり、スポーツ観戦とほとんど変わらない。


・政治的無関心は忙しさに強い相関があるように思う。老人とか失業した若者とかは時間があるから、政治に意識を向けられる。

2015年7月7日火曜日

映画批評『アメリ』

点数:70点

子供時代、親の教育方針で友達を持たず、空想に浸りがちだったアメリは、成人して人を幸せにすることに喜びを覚えるようになる。しかし、そんなアメリはいまだ人とのコミュニケーション、特に男性との恋愛に関するそれを上手くとれず、自分の幸せは棚にあげていた。そんなアメリにも恋する男ができるが、彼も奥手。奇妙な縁が繋ぐ、二人のラブロマンス(?)。

ストーリーに独自性はそれほどないが、映画の表現手法とアメリを含め登場人物の人間性の二つが非常にオモシロい。

表現手法では、登場人物の話の間に客観的な視点から当該人物が考えていた心情が語られるという形式を採っている。またアメリのアパートの友人として、骨が極度に脆い絵描きの老人が出てくるのだが、彼の模写するルノワールの「舟遊びの人々の昼食」に出てくる女性についての解釈とアメリの状況を重ね合わせながら、つながっていく展開は見ていてオモシロかった。

また、登場人物の話では、まずアメリが異彩を放っている。かわいいし、大人びているようにみえて、実は内面、子供でいたづら好き。そんなちょっと変わった娘としてのアメリは見ている人を強く惹き付けるだろう。その他にも魅力的な(一風変わった)登場人物が多数存在する。

ストーリーのダイナミズムはあまりなかったように感じられるので、70点とした。

文明塾 杉山愛さん セッション まとめ


杉山愛さん セッション まとめ


【反復性と日常】

文明塾を通して感じた”今の自分に最も必要”なこと。
それは日常における反復性である。

同じ毎日を送るのではなく、同じ部分を少しでも作ること。
杉山愛さんが最後にまとめてくださった
「ルーティンをつくること」の重要性。

思い返してみると、自分がそれなりに結果を出していた時は
常に無意識的にルーティンが確立していた。
朝起きる時間、寝る時間。食べる時間。筋トレ.etc

ルーティンを作ることで自分の体調が把握でき、日々に落ち着きが加えられる。

また、反復性は生活だけに収まらない。
学習内容においてもそうである。

大学における学習は相互連関させるのが難しいと強く実感する。
論文の輪読は明確な”教科書”に乗っ取って、流れに沿っている訳ではない。
つまり自分で順序を見極めて、体系づける必要に迫られる。
大学入学時より、生活と学習における反復性を軽視していた傾向がある。

文明塾を通して、3つの反復、習慣が身に付いた。
日記の記述と目的的な思考、軽い瞑想(というより自分の時間をとること)である。

日記の記述、ひいては書くことそれ自体が考えることだと実感できた。
そして厚意ある方々に読んでいただく、あるいは他の方々のものを読む中で自分の癖を実感できた。

また目的的思考はセッションにおける態度の中で養われた。
今回の講演や時間で自分は何を学ぶか。
それがなければ、本当に無為な時間を過ごすのみであった。

軽い瞑想は意外にも(忘れることもあるけれど)続いている。
なぜか知らないが、終えると頭がすっきりするのである(寝ている可能性あり)

しかし、それでもまだ自分のペースは全くつかめていない。
寝る時間、起きる時間はバラバラになりがちである。

自分のペースを再度確立しなければならない。


【遊戯三昧--やりたいことをするのではなく、やることを楽しむ--】

この言葉は文明塾で教えていただいた言葉の中で、ことのほか輝いている。
大学に入学後、自分の”やりたいこと”を追い求めすぎて、多くのものが中途半端になってしまった。
”やりたいこと”は探し続けても、簡単に見つかるものではない。
だからこそ、毎日を楽しむ。毎日を全力で生きる。

その結果として、”やりたいこと”が見つかる。
あるいはやっていることが”やりたいこと”になる。

そんなものなのだろう。



ーーー以下、自分のメモーーーー

・”単純な好き”から、”プロフェッショナル”への移行
どこかのタイミングで自分の活動が自分を超える。
超一流⇔一流
引き出しの多さ、冷静な判断力→総合力、人間力

・理にかなった動き→スキー

・世界基準においての自分の強み
・単純なパワーでは勝てない中で、どう差別化するか。
・弱みはわかりやすいが、強みの方がわかりづらい。
・他者から教えられることも多い。

・結果⇔プロセスの比重
若い頃は結果重視
課題が見える負け方
勝ち方。負け方
全力投球→プロセスを俯瞰→全力投球 のサイクル。
壁がプロセス俯瞰の原点になる。

・自分の中での勝敗の物差し。
→自分のポテンシャルの内で、何%出せるか。

・生活をルーティンにすると、
ポテンシャルが発揮できる。
→現役時代は33コあった。ex.)呼吸法
乳酸などを吐き出すイメージ
5分でもやると気持ちも落ち着く。ノラナイ日こそ、重要。
ずっとやっていくと、変化に気づける。

できなかったっといって、自己嫌悪に陥る必要はない。
それはルーティンとして適切ではない。

例)
朝起きる時間(6時?)・寝る時間(12時)
呼吸法・瞑想
電車の中ですること
昼食ですること
朝食で食べるもの
日記
読書・新聞
英語学習(ラジオ学習)

・イメージがフォローしやすい。
よいイメージの上塗り、切り替えができるか。

・コミュニケーション力の包容力
切り開くコミュ力→深い関係を築くコミュ力

・母に決めつけられたことはない。
子供は社会からの預かりもの。個としての尊重。

・自分の目標との差を理解
—それに対して、何が自分が足りないかを明確に理解
—そのために何が必要なのか
—そして今、あるいは今日なにをすればいいのかを落とし込む。

やらなかったら後悔するのは自分

小さいことを積み上げて、自信を獲得していく。

・大学時代にライバルがいるか。
自分がパフォーマンスを発揮したときに、ライバルはいたか。
むしろ大学受験時代は後ろからの追われてる感が自分の努力を引っ張りだした
⇔自分に負けない。
スタイルの差。
むしろ自分のパフォーマンスを発揮できたとき、どのような背景にいたかをしっかりと自己分析することが重要。

・団体競技である以上、他者との比較は避けられない。

・俺が俺がタイプでないからこそ、世界のトップに立てる。
フェデラー、ナダル、錦織全てに通用する。

・日本人はアピール力が足りない、自分を正当評価しなければならない。

・上手くいっていないときは成長する余地、伸びしろがある。

・スポーツをやっていた際の自分と勉強する際の自分の差は何か。
集団としてのパフォーマンスと、個人としてのパフォーマンスの差。
むしろ個としての自分の強み・弱みと集団としての自分の強み・弱みを
理解する必要がある。

・Big Pictureを描けるか。ギリギリのところを描けるか。
その人のポテンシャルをいかに広げていくか。

遊戯三昧・・・することを楽しむ Not=楽しむことをする

映画批評『デスノート』『デスノート the last game』

映画批評『デスノート』『デスノート the last game』

2006年に放映され、当時映画館に見に行ったデスノートをドラマの開始に相まって、再度鑑賞した。懐かしくも新鮮な作品であり、原作のすばらしさがにじみ出ている。

デスノートにおける根源的な問いはなんだろうか。
それは「悪はいかに裁かれるべきか」ということである。

主人公のライトが問題にしたのは、現代の法治国家下において、証拠不十分によって不起訴あるいは減刑処分を受けた犯罪者達の存在である。彼らは本当に極刑に値しないのであろうか。

ここで考えるべきは法治国家における「証拠裁判主義」における一種のトレードオフである。それは具体的に、証拠不十分により生じる真の犯罪者の減刑、釈放か、証拠軽視による冤罪発生の増加の間にあるトレードオフである。

果たして、我々はどちらを重視すべきなのだろうか。

現在では少なくとも、証拠軽視による冤罪の発生、冤罪をかけられた人間の人権を尊重する立場にあると言えるだろう。

一般にハンムラビ法典から始まったとされる法治主義を代表する「目には目を、歯には歯を」という大原則。これは一般に解釈されがちな「仕返しをすべきだ」というメッセージではなく、「相応の罰しか許さない」という過剰な復讐の予防としてのメッセージである。

唯一、正当な「暴力手段」を持ちうる国家はその暴力の使い方に関して慎重を期さなければならないのだろう。

そう考えると、現在のような「真の犯罪者の減刑、釈放」は制度上の「必要悪」と見なされる。
しかし、警察や検察の努力により、「必要悪」を最小限にする努力はできる。

デスノートによる「裁き」は冤罪を回避できないし、一人の人間の「視点」から抜け出すこともできないため、正当性を持つとは言えないだろう。

(しかし、映画や漫画としてのデスノートは単純にオモシロい)