映画批評『デスノート』『デスノート the last game』
2006年に放映され、当時映画館に見に行ったデスノートをドラマの開始に相まって、再度鑑賞した。懐かしくも新鮮な作品であり、原作のすばらしさがにじみ出ている。
デスノートにおける根源的な問いはなんだろうか。
それは「悪はいかに裁かれるべきか」ということである。
主人公のライトが問題にしたのは、現代の法治国家下において、証拠不十分によって不起訴あるいは減刑処分を受けた犯罪者達の存在である。彼らは本当に極刑に値しないのであろうか。
ここで考えるべきは法治国家における「証拠裁判主義」における一種のトレードオフである。それは具体的に、証拠不十分により生じる真の犯罪者の減刑、釈放か、証拠軽視による冤罪発生の増加の間にあるトレードオフである。
果たして、我々はどちらを重視すべきなのだろうか。
現在では少なくとも、証拠軽視による冤罪の発生、冤罪をかけられた人間の人権を尊重する立場にあると言えるだろう。
一般にハンムラビ法典から始まったとされる法治主義を代表する「目には目を、歯には歯を」という大原則。これは一般に解釈されがちな「仕返しをすべきだ」というメッセージではなく、「相応の罰しか許さない」という過剰な復讐の予防としてのメッセージである。
唯一、正当な「暴力手段」を持ちうる国家はその暴力の使い方に関して慎重を期さなければならないのだろう。
そう考えると、現在のような「真の犯罪者の減刑、釈放」は制度上の「必要悪」と見なされる。
しかし、警察や検察の努力により、「必要悪」を最小限にする努力はできる。
デスノートによる「裁き」は冤罪を回避できないし、一人の人間の「視点」から抜け出すこともできないため、正当性を持つとは言えないだろう。
(しかし、映画や漫画としてのデスノートは単純にオモシロい)
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