2015年4月26日日曜日

『夜と霧』新版(ヴィクトール・E・フランクル)


『夜と霧』新版(ヴィクトール・E・フランクル)

戦時期、ユダヤ人として強制収容所に3年間労働を強いられた
精神医学者・心理学者による「極限状態における人間心理」に関する分析書。

かつて自分が悲惨な目に遭わされた過去にも関わらず、
作者はあくまで一学者として冷静な目線をもって、
「人間となにか」「我々はなぜ生きるのか」といった根源的な問題に迫っている。

ブリーフィング

本書では強制収容所における人間の心理状態を前・中・後の3つに分けて、それぞれ記述している。以下、その区分に沿って、まとめる。その時々の心理状態を中心に記述しているが、作者の著述に必ずしも流れがある訳ではないので、散逸した印象を与える可能性があるので、その点、ご容赦いただきたい。

①収容

収容前の被収容者は”恩赦妄想”という病像にいたる。これは死刑囚などが抱く感情で、いわば「土壇場で自分は恩赦されるのだ」という楽天主義にとらわれる現象である。

またこのような状況にも関わらず、ユーモアを飛ばしあい、そして次の瞬間自分はどうなるのか、という好奇心にとらわれる。
しかし、当然のことながら、冷静な好奇心に加えて、大きな”ショック”を受ける。そしてこのショックが被収容者の多くを自殺へと導いた。

②収容所生活

収容所生活に関する箇所は本書でも大半を占める。以下、特に重要と感じることのみを記す。
収容直後の”ショック”の後、人々に訪れるのは”感動の消滅(アパシー)”である。その最たる例は家族へ会いたいという感情だろう。しかし、感動は消えても感情を消し去った訳ではなく、自分の姿を含めたあらゆる醜いものへの嫌悪、また肉体的苦痛を受けた際の心の痛み、つまり不正や不条理への憤怒は深く感じるものであった。

内面という観点からは二通りの被収容者がいた。未熟の段階に引きずり出されるものと、深まるものである。深まる人々はおぞましい現実世界から遠ざかり、豊かな内面へと立ち戻った。筆者にとって、それは妻への愛であった。

また、従来なんともなかった自然への愛を強めた。

収容所はどうしようもなく特異な社会環境であり、自由も尊厳も放棄して外的な条件にもてあそばれるたんなるモノとなりはて、「典型的な」被収容者になるのも仕方なかったと言える。しかし、そのような環境の中でも自分がどのような精神的存在になるか我々は決断を下せる。
これは以下のドストエフスキーの言葉に収斂される。
「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」
まっとうに苦しむこと、その中で得られる精神的自由は、その生を意味深いものにした。苦しむ生も生の一部として、意味ある生である。人間の精神は肉体よりも強靭である。

収容所では、苦痛がいつ止むものか分からない。これは未来への不信をもたらし、それが目標を設定できない状況を生む。そうして、現在を無価値に貶めた人間は収容所では破綻していったのである。

収容所内の人間を精神的に奮い立たせるためにはまず未来に目的を持たせなければならない。ニーチェ曰く「なぜ生きるのかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」のである。

「生きる」ことに期待を持てない人間に希望を持たせるために必要なのは、生きる意味についての問いを転換することである。すなわち生きることからなにを期待するかではなく、むしろ生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのである。

「生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない」

「わたしたちにとっての生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、相対的な生きることの意味だった。」

「ひとりひとりの人間を特徴づけ、ひとつひとつの存在に意味をあたえる一回性と唯一性は、仕事や創造だけではなく、他の人やその愛にも言えるのだ。」



③収容所から解放されて

解放された後の人間は極度の離人症の中で、
自由をうれしいと思う感情を逸してしまった。

また強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、人生が自分を待っていること、だれかが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だった。しかし、自分を待つ人がもう誰もいないと知ったとき、彼の失意は容易に乗り越えられない体験となるのである。

「ふるさとにもどった人びとのすべての経験は、あれほど苦悩したあとでは、もはやこのよには神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によって完成するのだ」




感想

単純な印象として、私が人生で読んだ本の中でもずば抜けて、示唆に富み、なおかつ心に深く訴えてくる本だと思う。
一つには本書が筆者の体験からなるものだからであろう。ただ頭で組み立てたものではなく、「強制収容所」という考えうる限り、最も過酷な状況を生き抜いた人間が心で感じた本なのである。

そして本書は「強制収容所の恐ろしさ」とか、「非人道、非倫理性」を訴えるものではない。「人間となにか」「生きるとはなにか」について考えさせられる本である。

私が最も感動を覚えたのは、

「生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない」


の部分である。

私達は形而上的に、生きる意味を問う傾向があると思う。
生きる意味は、人類知への貢献か。愛か。死か。

しかし、作者曰く、生きる意味とは唯一の存在の我々にその都度、立ち現れる生の要請に具体的に答えなくてはならない。我々は他の人に自分の苦しみを取り除くことを期待できないし、だれも代わりに苦しむことはできない。運命を引き当てた本人が苦しみを引き受けることになにかを成し遂げるたった一つの可能性がある。

フランクルは一部の「ヘブライイズム」=「個の唯一性尊重」を基礎にしているように思う。我々の生は抽象的なことではなく、具体的、個人的な生である。私の経験は私にしかできない。我々は頻繁に他人と比較して、羨んだり、妬んだりする。しかし、羨んでも、妬んでも他人の生は他人のものであり、私の生だけが私の生である。状況はなにも変わらない。運命は時に残酷さを帯びるかもしれない。絶望を感じさせるかもしれない。しかし、その経験自体も私だけの生であるのだ。みんなにとっての「生きる意味」などない。我々はただ自分の生に対応し、生きるだけなのである。















2015年4月25日土曜日

『エネルギー問題入門』(リチャード・ムラー)

『エネルギー問題入門』(リチャード・ムラー)

以下、昔まとめた本であるため、フォーマットが多少異なる。


将来の国を担う人材に向けて、各種エネルギーの特性を概説した良書。
本書の中では石炭や石油による従来の発電法から、水素発電や核融合のような最新理論まである程度まとまって記載されている。
しかし、本書の記述はあくまで”アメリカ”の将来的指導者へ向けたものであり、他国、特に日本においては相当状況が異なっているはずである。

本書を読むにあたっての目的は3.11以降、原発反対を始めとしたエネルギー論争が巻き起こる中で
様々なされる感情論、印象論から一歩離れて未来のエネルギーのあり方について考えるためである。

感想のまず第一点としては、政策作成者は勿論のこと、議論に参加するに当たって、科学的な議論に乗っかって議論をすることの重要性である。
メディアなどを見ている限り、原発はただただ悪影響しか及ぼしていないように見える。また原子力ムラなどのキーワードが跋扈する。
しかし原子力はなぜ導入されたのか、他の発電法との違いはなんなのか等を理性的に議論をすることが重要である。

メディアや被害者は往々にして、当該問題に対してネガティブな指摘を行うのみである。それは仕方なく、さらにそれに価値がない訳ではない。
しかし、私は批判した上で、なぜ批判するのか、根本的課題はどこにあるのか、そして対案を示すことが重要であると思う。
私のこの視点は公共を想う利他性のみに乗っ取っているのだろうか。その側面は一部あるだろうが、全てではない。私はそれほど善人ではない。
このような客観性を持っていないものに対する嫌悪感故であろうと想う(自己分析)

さて、エネルギー問題を考えるに当たって重要なことはなんであろうか。
本書を読んだ上で、考えるべきは、
・コスト(コストと一口に言っても、その中で初期投資と運営費用、将来的な価格低下の可能性=時間軸も考慮するべきであろう。)
・環境への影響
・エネルギー源の規模(=持続性?)
・人的影響(原発や大気汚染による人的被害等)
・廃棄処理の可能性
・当該エネルギーに対する人々の教育度合い(原発への印象など)
・エネルギー効率(=コスト?)
・景観への影響

などであろう。
これらを統合的に考慮しての意思決定、意思表示が求められる訳である。

またエネルギー問題を考えるに当たって、その根本的分析を忘れないことは重要である。
現在、温室効果ガスの最大排出量を誇るのは中国であり、これからインドやブラジルなどの経済成長を考えたとき、
これら発展途上国の協力は欠かせない。この点を無視した議論はただの自己満足である。
これは個人的なエコ意識にもつながる。つまり生活者の排出する温室効果ガスがいかほどかを考えずに、
永遠と省エネを実行していても効果は極めて薄いのである。

第二にエビデンスに基づかない、偽善的努力のむなしさである。
一般的に古紙再生や電気自動車の利用は環境に良いものであると思われがちである、しかし本書において、それらの無意味さが説かれていた。
つまり環境を配慮した活動の様々が環境に実は悪影響を与えているケースは頻繁にあり、それらの偽善的行為の押しつけは無意味であるということである。

第三に一般大衆の未知への怖れと、既知への慣れである。
これは原発問題から感じとった。原発は一般人からは未知である。だから、それに大声で反発する。
そして健康問題が起これば、大規模な訴訟が起こる。
しかし、思えば原発による死亡よりもはるかに津波による死亡の方が多いし、
何より肥満などによる問題の方が多い。ここから分かることは、
①自分に関係がありそうな問題に対しての意見に集中しがち
②自分に未知な問題を過大評価しがち
③身近にある最大の問題は軽視しがち

まあ、自分が影響が及ぼせない(=原発)ものを批判し、自分が影響を及ぼせるもの(=肥満や喫煙など)に関しては
目をつむるとは中々良い態度とは思えない次第である。

第四は科学の面白さ。これからも定期的に触れていこう。自然科学の歴史は人間の叡智の歴史である。

【エネルギー問題】
エネルギー問題を他の問題より複雑にしている点としてエネルギーの備蓄の難しさという点にあると感じた。
備蓄できないが、故に電力会社は将来の電力需要を予想せねばならない。
故に効率性が低くなっている現状があるのだろう。

アメリカはシェールガス、シェールオイルの豊富さからエネルギー面でそれほどの苦難を強いられることはなさそうである。
またそれに反比例して(?)、中東の価値は暴落しそうである。中東が他の事業への投資を加速化している理由が伺える。
また専門性が求められる分野だからこそ、楽観主義バイアスと懐疑主義バイアスには注意しなくてはならないのだろう。


【日本のエネルギーの将来】

様々踏まえて、日本のエネルギー政策はどうあるべきであろうか。
まず日本の現状を分析するに何らエネルギー源を持たない状況である。(メタンハイドレードが海洋に眠っているらしいが、今回は考慮しない。
メタンハイドレードの運用可能生は低いらしい。)
エネルギー源がないということは輸入に頼っているということであり、非常に不安定な状態にあるということであろう。
日本はアメリカ以上にエネルギーの安全保障(分散)などの観点が求められると思われる、

エネルギー生産の面から、まずアメリカにおけるシェールガス、シェールオイルの拠出による原油価格の下落は享受できるだろう。
それを考慮してもエネルギーの分散の観点から、原発も保持せざるを得ない。(コストも安いし、何より日本は技術的優位を持っている)
今後もこの両軸を動かすことはできない。

消費の面からは日本の省エネ技術の優位性を追求していくことにある。

結果、非常に当たり前の議論になってしまう。
日本は原発を保持すべきである。というよりも原発を保持せざるを得ない。
自然エネルギーはコストの高さや不安定性の観点から、頼ることはできない。
原発を一定程度保ちつつ、火力などで天然ガスなどの低CO2排出の素材への移行を進める、
比重を高めるなどが現実的ではないかと考える。

『僕たちの前途』(古市憲寿)

『僕たちの前途』(古市憲寿)

ブリーフィング

いわゆる”起業家”の社会学的な分析を中心にし、前半で現在の若手起業家の実像を作者の友人をベースに伝記調で記し、後半で”起業”を通した日本人の働き方の推移を語っている。

前半:
ここで語られる起業家、つまり作者が所属する会社の社長やTGCのプロデューサー、俳優上がりの映画監督に共通しているのは、「野心から起業しているわけではない」ということ、そして「今、ここ」における楽しみを人々との「つながり」から見いだしている点に特徴がある。
この点は作者がホリエモンや孫正義によって形成された人々の起業家感(「野心に満ち、時に非情など)」を揺さぶる目的があると思われる。



後半:
様々な統計的問題(自営農をどう捉えるかなど)はあるが、日本の”起業家”数はここ100年ほど、減少し続けている。

逆を言えば、被雇用者が増加してきたわけではあるが、「雇われて働く」ということが一般的になってきたのも、ここ何十年かのことである。それまでは多くの自営業者がリスクに向き合いながら生きてきた。被雇用者の増加を国の成長と見なす官庁の元、様々な企業が増えていった。そして現在、”国家”のような(居住の自由や職業選択の自由がないという意味で)独裁制をもつようになった会社において、日本人は働いている。(彼らはOECD所属国の内、最も所属企業が嫌いにも関わらず、働く時間はとてつもなく長いという状況に追い込まれている。)

かつて高度経済成長下の日本には成功への二つのルートがあった。良く勉強し、イイ大学に行き、イイ会社に入る。あるいは腕一本で自分の専門性を磨き上げ、「一国一城」の主となるルートだ。しかし昨今、資金調達の難しさなどから後者のルートは閉ざされ、前者のルートも過労死や、大手証券の倒産などで閉ざされつつある。(とはいえ、前者と比較して未だ健在である。)その中でいわゆる「頭の良くない」人達は一種の諦観を抱き、イイ会社ルートを離れることで自尊心を高める。そうした人たちに魅力的に移るのが、起業家なのである。仕事を専門性と流動性の2軸で分類すると、ギルド型専門職(専門職、固定的。弁護士など)、正社員(コモディティ、固定的)、フリーター(流動的。コモディティ)、非資格型専門職(専門性、流動的。IT,コンテンツ産業など)に分けられるが、この中も非資格型専門職はたとえ学歴がなくとも、成功する可能性を残すからである。(しかし実際にはその可能性は高くはない。失敗者の声は大きくは移らないのだ。)そして、希望を捨てきれない若者達はフリーターとして、(自己認知はなくとも)歯車として生きていくことになるのである。

では人口減少や高齢化など様々な問題を抱える日本に住む現在の私達はどのように働くべきであろうか。まず職業というのは手段であり、その本質ではなく、「起業家になりたい」「フリーで働きたい」というのは本当は何もいっていないことを押さえるべきだ。その上で本書では少なくとも起業をおすすめしていない。一発逆転が可能な輝かしい出来事に見えてしまうが、起業の成功は人のつながりなど自分がそれまで所属してきた団体に縛られがちなどのも事実なのだ。

感想

今、世間でにぎわっている起業家を分析した本として、(Amazon等の評価は高いとは言えないが、)非常に面白く思えた。
本書を短くまとめるのであれば、「現在、社会において声高に叫ばれ、既存企業の中においても必要とされる”起業家”だが、実際の起業家の背景に多大な努力とつながりがある。そうした中で起業家やイノベーションが求められるのは、それが自分の満足できない現状から簡単に飛躍できるように見えるからである。」といったところになるだろう。

本書が面白く感じられたのは、私もかつて起業をそのようなものとして考えてきたからである。
「アイデア一つで地位も名誉も得られる」
そんな幻想が自分にもどこかにあったように思う。
しかし実際の企業とは、起業とは自分のアイデアを売り込む営業力、資金調達のための財務知識、優秀な人材を引き入れるためのつながりなど様々な事前能力に裏打ちされているケースが非常に多いように感じている。ヴィジョンだけでは起業は不可能なのだ。





2015年4月23日木曜日

『悩む力』(姜尚中)



『悩む力』(姜尚中)

ブリーフィング

ヴェーバーと漱石という同時代に生きた天才を通して、
未解決の問題にあふれた「現代」における、”悩む”ことの重要さを説いている。

・私とは何者か
「脱魔術化」され、自由を与えられた我々は
ひどく孤独である。
この孤独を打ち消すには「相互承認」しかなく、
「相互承認」するためには自分を他者に対して投げ出す必要がある。

・世の中全て「金」なのか
「創始者意識」(=バブル)と「末流意識」(=現代)がある。
「末流意識」においてはみな時代に対してなんらかの不満がありながら、どこか諦めている。

新たな「帝国主義」

・「知ってるつもり」じゃないか
電車に乗っていても我々は電車の構造を知らない。
Informationはあるが、Intelligenceはない。

世界は行き先も分からず、進む。
それに対し不安を抱くが、かといって古きに拘泥するのも不幸である。

・「青春」は美しいか

青春とは「無垢なまでにものごとの意味を問うこと」

人間の老成には二種類ある。
「表面的な老成」か「青春的に老成する」か


・「信じるもの」は救われるか

宗教は制度であり、人は信じるものを求める。
科学も我々に対して、信じるものを与えてくれない今、
我々は何か自分が確信できるものを見つけるために悩まなくてはならない。

・何のために「働く」か

我々は金があれば、働かないのか。
我々は働くことで社会に自分がいてもいい、ということを実感するにすぎない。

・「変わらぬ愛」はあるか

”自由”が愛を不毛にした。
過去、なんらかの縛りがあったからこそ、
人は比較できた。(お見合い結婚、そこからの不倫など)

愛とは「そのときどきの相互の問いかけに応えていこうとする意欲」


・なぜ死んではいけないのか

フランクル:人は相当の苦悩に耐える力を持っているが、意味の喪失に耐えきれない。
相互承認こそが人間に生きる意味を与える。


・老いて「最強」たれ

福沢諭吉:「一身にして二生を経る」

死を受け入れたが故に、老いは横着者を生み出せる。
それが破壊力を生み、今を変える力になる。


感想

私が留学にいって、考えたいのもこのようなことだろう。
我々はなぜ生きるのか。
自由であることの弊害とはなにか。
自分を相手に放り投げられるか。

こうした種々の疑問に「悩む」こと、そのプロセスが「青春的な老成」を生む。

私が抱いていた疑問もおそらくこういうことなのだろう。
表面的なスキルを追い求めて、「ホントウニタイセツナコト」から目をそらしている。

そこに対して全力で悩む時期にできればいい。

特に就職を前にすると、こういったことは本当に重要であると実感できる。
多くのスキルを手にいれ、努力した後に自分はどうなっているのか。
本当にそこに生きる意味を見いだせるのか。

そういった意味では人生とは生きる意味を見いだすための旅である。

宗教も国家も科学も、正しいと思えるものが何もないと思えるこの時代において、
自分にとって確からしいものを探すこと、その青臭さを大切にしたい。

また「相互承認」は個人的に刺さる言葉であった。
私は今、ひどく逃げ回っている状態であると思う。
だからこそ、満足できていない。
人間は一様ではなく、完全に分かり合うことは不可能である。

しかし、その中でも相手と真剣にぶつかり、生きていくこと。
それが重要であることが再確認できたのが良かった。

『20代の後悔しない働き方』(小宮一慶)

『20代の後悔しない働き方』(小宮一慶)

本当に大きな仕事をまかされる30代、40代で価値を発揮するために
20代をいかに働くべきか、という指南書。

本書では20代で磨くべき力を
思考力×行動力×正しい考え方の三つに分け、議論を進めている。

以下、上記の三点に関して、自分が重要であると感じた場所をブリーフィングし、
それに感想を付け加える。

【思考力】
ブリーフィング

・深く考える力をつける
世の中は複雑系であるが故に、
枝葉ではなく本質を見る(普遍性がある、汎用性がある)思考力が重要。

それを磨くために
ワーク(=業務、目の前の仕事)に対して深く考え、ライフでストックできる(=資格など)勉強をコツコツと進めること

・世間のニーズに自分をフィットさせる
人生は串団子である。
串団子には4つの団子がついており、自分、家族、会社、社会の4つがバランスよく存在していることが重要。
決して、自分よがりにならないことが結果として「相手目線」(=相手は何を求めているだろう。社会はどうなるのだろう)を生み、長期的な成功につながる。

感想

人生は串団子という言葉はしっくり来る。
全てのバランスが重要なのだと思う。

また就活を控えた今、その中で自分が汎用性のあるスキルを手にいれられる場所か、
という視点は非常に興味深い。




【行動力】
ブリーフィング

・努力を続ける習慣をつける

仕事で評価されるのはあくまでアウトプットであるから、
思考力と行動力の両輪が重要。
常にに自分を過不足と考え、周りの「凡人」達に埋もれず、
自分のペースで努力する。
また動くことを習慣化する。


・経験に投資する

経験は最良の教師である。
20代の内は留学や海外プロジェクト参画などリスクに飛び込み、
自分を鍛える。
経験を通して、T字型の人間を目指す。

・人に強くなる。

人間音痴は人の上に立てない。
よって、人はどういう姿勢、
どういう工夫に喜んでくれるのかを常に考える。
(例えば、メモをつける習慣をつければ、相手の承認欲求を満たすなど)

感想

人に強くなる。対人での深いコミュニケーションは
自分に現在最も欠けている点であると思う。
人間との軋轢、矛盾が人に成長を促す。

【正しい考え方】
ブリーフィング

・「優秀な20代」の落とし穴を知る
成功=能力×熱意×考え方(-100~+100まで)
考え方は重要なファクター。
串団子と謙虚さをイメージし、社会のためにはたらく。
数多くの多様な人々に触れる(階層なども含めて)

・「一人前」は二流の別名に過ぎない
GoodはGreatの敵である。人はそこで満足してしまうものである
他社でも活用できる普遍的な能力を手に入れる。

・「ブレない目標」が見つかる具体的な方法

目標はメジャラブルにする。富士山に散歩で上った人はおらず、
高いところに上るためには自分の目標をしっかりと設定しなければならない。

感想

考え方という観点で行くと、留学を希望する理由はそこにあるように思う。
数多くの自分と異なる人に触れることで自分を客観視できるという側面は確かにあるのだろう。